ケンカの原因
幾つもあるスイートルームの部屋のひとつにヒカルを寝かせると、広海は体温計を取り出し、ヒカルに渡した。
ヒカルはよく熱を出す。
それは決まって、頑張りすぎた時や、自分の家から離れて過ごした時。
今回はどっちも当て嵌まるわけだから、よく今まで気付かなかったなと思うくらい。
「なあ。そう言えば、今日じゃなかったか?広海の元カノが帰国するの」
「元カノって。安西菜穂?」
熱があると言っても、比較的元気なヒカルは、ベッドから上半身を起こし、不意に言った言葉に驚くと結菜は広海を見た。
当の広海は、表情を変えることなく「そうね」と呟いた。
「そうねって。会いに行かなくてもいいのかよ」
結菜もヒカルが言ったことに首を縦に振りながら賛同する。
「ヒカルのことは私が見てるから、広海さん菜穂さんのところへ行って来てよ?」
窺うように言うと広海は寂しそうに笑った。
「いいのよ。他の人が行ってくれてるし、わざわざ私が行かなくったって……」
「いいわけないじゃない。ホント。ヒカルのことは心配しなくても大丈夫だから」
私に任せておいて。と言っても、広海は一向に動こうとしない。
「本当にいいの」
そう言って首を横に振り、無理をして笑っていた。
本当は行きたいに決まっている。そう広海の顔が言っている。
「菜穂さんに、会うのが恐いの?」
広海は困ったように作った笑顔を結菜に向けると、ベッド脇にある椅子に座った。
何の前触れもなく、突然自分の前から消えた恋人。
広海はその理由も最近まで分からずにいた。
でも。思い掛けず、綾の母親からその理由を聞いてしまう。
それは……
広海と菜穂の間に子供がいるかもしれないという事実―――
どういう思いで菜穂は広海の前から消えたのだろう。どうしていなくなる必要があったのだろうか……
そして、十数年ぶりに会う菜穂は広海に会い、何を語るのだろう―――
会うのが恐い。きっと広海はそう思っているに違いない。
自分だって、もし、もし蓮と別れるようなことがあれば……
「…………」
だめだ。
今は考えるのは止めよう。本当に嫌われたかもしれないのだ。架空の話しではないかもしれない。
ゾクゾクッと身体が震えた。
「でもさ。安西菜穂が広海の事務所に入るんだったら、いくら逃げてたっていつかは会わないといけないんだろ?始めから逃げずに堂々としてればいいんだよ。広海らしくない」
「ヒカルちゃん……」
「そうだよ。広海さんは強い人だもん。それに、何があっても私たちが付いてるから。広海さんのこと、ここでヒカルと待ってるから」
「結菜ちゃん……」
「ほら。早く行って」
結菜が広海の腕を掴み引っ張ると、広海は潤んだ眼で二人を見てから「行ってくるわ」と何かを決意した強い眼に変わり部屋を後にした。
大丈夫。きっと大丈夫だよ。
−ガンバレ。広海さん。
結菜は、広海が出て行ったドアに向かってエールを送った。
「じゃ。ヒカルは、ちゃんと寝てるんだよ」
広海を見送ると、ベッドに座っているヒカルにゆっくりしてもらおうと、そう声を掛けた。
「あ、結菜?」
「何?」
「いや……何でもない」
ヒカルは布団を持ち上げその中に潜り込むと、頭まで布団を被った。
「…………?」
何か言いた気なヒカルを残し、結菜は部屋を後にした。
広海は菜穂のところ、ヒカルは熱を出して寝ている……これからどうしよう。と一応リビングまで戻ってきた。
「森のおっさんを呼んだけど、よかったか?」
「あ、ありがと」
そこにはやっぱり蓮がいて……そう言ってくれるのは有り難いけれど、居心地が悪い。
結菜はなるべく蓮から離れたところに座ると大きな窓の外を眺めた。
お互い、それ以上の会話もなく、そのうち、窓の外をただ眺めているだけでは飽きてきて、お得意の部屋の中を探索してみる。
もちろん、仲直りはしたい。蓮から謝ってくれればすぐにでも。
自分は一度、このことについては蓮に謝っている。謝っても仲直り出来なかったのだから、もう仲直りするなんて無理なんじゃないのかとすら、思えてしまう。
それに『女のとこでもどこでもいけばいい』と言う幼稚な売り言葉を買ったのは蓮なのだ。
私だけが悪いんじゃない。と自分を少しでも正当化してみる。向こうだって悪いところはある。これで、嫌われてサヨナラなら、それまでの関係だったんだ。
本当にそれでいいの?
いや……よくないだろう。
そんなのは絶対に嫌。
このままでもいいの?
それも嫌!
それじゃどうするの?
「…………」
結菜が自問自答していると、蓮は何かを考えているように、ただ黙って座っていた。
「風邪ではないようですね。疲れが出たのでしょう。気分が悪いと言っていたので今、点滴をしています。終わるまで私もここにいても構いませんか?」
白髪の森医師がヒカルの眠っている部屋から出てくると、目尻のシワを増やして微笑み、そう説明してくれた。
「だったら。ちょっと出てくるから、ここにいてくれないか?」
蓮は森医師にそう言うと、結菜の腕を掴み、無理矢理部屋から連れ出した。
「ちょっと、何処に行くの?」
専用のエレベーターで、ロビーまで下りると、今度は違う場所にあるエレベーターに乗り、また上へと上がっていった。そして、どこかの階で扉が開くと、蓮に腕を掴まれたまま、廊下を歩き、幾つも並んでいる同じようなドアのひとつに足を止めると、蓮はカードキーを差し込んだ。
「蓮くん?」
「入れよ」
蓮はドアを開けると先に結菜を中に入れた。
そこは、普通のホテルの一室。入ってすぐにはユニットバスがある扉があり、その奥にはベッドが二つ並んで配置されていて、更に奥にはテーブルにソファーというシンプルな部屋。
蓮が何故ここに連れてきたのか分からず、結菜は部屋の奥へと入っていった。
「ねえ。どうして……」
どうしてここへ来たの?と言う途中に言葉に詰まった。
後ろからふわりと包まれた温かい腕。蓮の息が耳元で聞こえている。
「蓮くん?」
「悪い……」
蓮の掠れた声が、息が、頬に触れた。
「悪いって……?」
−謝ってくれてるの?
「俺ってホント。ガキ」
耳に直接届く声。後ろから抱きしめられたままの会話。
宙に浮いた自分の手が戸惑いながら、軽く蓮の腕に触れてみる。
背中と腕から蓮の温かさが伝わってきた。
『悪い』
その一言で許してしまう。何もかも。
ホントに単純……
「よかった……」
思わず出た言葉に蓮は、ん?と聞き返した。
「ううん。何でもない」
嫌われたんじゃなくて良かった。
心臓はバクバクと音を鳴らしながらも、ホッと胸を撫で下ろしていた。
蓮も結菜もそれぞれの、ベッドの端に座った。
「ケンカの原因ってなんだったかなあ?」
あまり記憶にない。覚えているのは自分の手を突き放した時の蓮の冷たい眼と、自分が放った言葉だけ。
「覚えてないんだったら、わざわざ掘り返す必要ないだろ」
「そうだけど……」
思い出さないほど、どうでもいいことでケンカしたってことも、どうかと思うけれど……
「お前の兄貴って……」
「ヒカル?」
「あ、いや」
何でもないと蓮は眼を逸らした。
ヒカルといい、蓮といい、今日もなんだかヘン。
今日も。
「蓮くんて、広海さんと話ししてたんだって?」
「あ……そのことだけど。広海さんは上条を家に連れて帰るみたいだぞ」
「え?いつ?」
「今日はここに泊まって、明日には一緒に帰るんじゃないのか。だから、マスコミ対策を一番にしたかったんじゃないか?」
「そう……」
家に帰れることは嬉しいけれど、蓮と離れることはちょっと寂しい。
一緒にいれば、ケンカばかりなのに、離れるのは嫌なんて本当に勝手だ。
結菜はセーターの上から、ネックレスの先にある指輪を、触った。
「上条が自分のとこに帰ったら、こういう機会もないのかもしれないな」
「そうだね。学園じゃ二人で話しなんてできないもんね」
やっぱり。寂しい……
「だから……」
蓮は立ち上がると、結菜の隣に座った。
「…………?」
「今度は怒るなよ」
「あ……」
思い出した。どうしてケンカになったのか……。
っていうか、なんで忘れてたんだろう。
「やっぱり怒る?」
下から覗き込むように、不安な眼を向けている蓮を、かわいいと思った。
その顔や仕草で、キュンと胸が締め付けられる。
そんな顔をされると、何でも「いいよ」って同意してしまうじゃない。
「怒らないよ。優しくしてくれるんでしょ?」
そして、自然とそんな言葉を返している。これを『素直』と言うのだろうか。
結菜の言葉を聞いて、笑った蓮の顔を見ると、愛しさがこみ上げてきた。
笑った顔が一番、好き。
好きだな。
『何回こんな事があるのかな?
ケンカして仲直りして、またケンカして……
相手の考えてることが分かればいいのにな。
ここから先に踏み込んだらダメだって。
そう分かってれば、ケンカをすることもないのにね』
『喧嘩をする度にお互いの絆が深まるんじゃねぇ?
だから喧嘩することにも意味はあるんだよ。
ほら、よく言うだろ。
喧嘩するほど仲がいいって』
『じゃあ。ちょっとは蓮くんとの絆も深まったかな?』
『ん〜それはどうだろ』
『なによ。それ』
『俺との長い人生。焦らなくてもいいんじゃない?』
瞼を開くと隣には自分を見つめている蓮がいた。
部屋のカーテンの向こうは、もう真っ暗で、オレンジ色のベッドの照明が眩しい。
「起きた?」
「私……もしかして、寝てた!?」
このところ、いろんなことがあってあまり寝ていなかった。蓮といると安心して、つい眠ってしまったのだろう。
ベッドの中で身体の向きを変えると、胸の辺りで鎖の先にある指輪が滑っていった。
「なんかぐっすり寝てるから、起せなかった」
どれくらい眠っていたんだろう……
「あっ!ヒカル。ヒカルは大丈夫かな」
広海に任せてなんて言っておきながら、私って……
自己嫌悪に浸っていると、横で蓮が溜息をついた。
「お前……裸でベッドにいる時に、兄貴の名前を言うなよな」
「裸……?」
シーツの隙間から中を覗くと確かに裸で、そこまでに至った経緯を思い出すと、一人顔を赤らめた。