消えぬ火
六月二日、朝――。
利三と左馬之助からの急報を受け、明智光秀はわずかな供回りを連れ、鳥羽を発った。
馬回りが足を止め、光秀は馬を降りた。
かつて南門を飾っていた松は、葉を焼き尽くされ、炭化した枝が幾筋も天を指していた。その黒い指先のさらに上には、朝日が居座り、立ち上る薄煙を白く透かしていた。
南門の橋を渡る足元。堀の水面には初夏の青空と、黒く焼けた門が鏡のように映っている。だがその水は、煤と血を吸い、底が見えぬほど濁っていた。
門をくぐり、焼け爛れた境内へ足を踏み入れる。そこはもう昨日までの本能寺ではなかった。静寂が場を支配し、朝の強い光が残骸の影を長く伸ばしている。
正面には、本堂の焼け跡が広がっていた。
光秀が一歩踏み出すたび、細かく砕けた瓦が音を立て、地面に積もった白い灰がふわりと舞い上がる。
「ここまで焼けたのか――」
光秀は大きく息を吐いた。
足元には、砂金のように光る瓦の破片が散っていた。
本能寺の屋根を飾っていた豪奢な瓦──家紋に施された金箔瓦が熱で割れ、無残に砕け散ったものだった。
まだ本堂の奥の火は消えていないのか、焦げた木の臭いに混じり、香木が焼けたような甘く重い香りが鼻を突く。風が吹くたび、火の粉が蛍のように舞い上がった。
「殿!」
左馬之助の声が響いた。
男は慎重に足場を選び、泥まみれの土を進んでくる。
黒焦げの泥の中には、焼けて割れた槍や刀が散乱し、熱で銃身が曲がった火縄銃が転がっていた。
左馬之助は光秀に近づくなり、信長の亡骸のことよりも、まず伝えねばならぬことがあった。
「こちらへ」
境内の隅──遺体が並べられた場所へ案内した。
莚が掛けられた遺体の数に、光秀は言葉を失った。
左馬之助は、光秀の視線が自分へ戻るのを待ち、静かに腰を落とした。そして、莚を取った。鎧を着た武者姿の男たちが横たわっていた。
「これをご覧くだされ」
左馬之助が指した先には、遺体から外された青色桔梗の旗指物があった。黒く焼けた境内の中で、その青は不釣り合いなほど鮮やかだった。
「大きすぎませぬか……」
光秀は左馬之助を見つめた。本来の明智軍の旗指物よりも、明らかに大きい。まるで『明智』を誇張するために作られたかのようだった。
光秀は左馬之助の表情を読み取り、
「続けよ」と命じた。
「甲冑が新しく、刀傷、鉄砲傷が一つもないのです……」
「漆の仕上げが荒い……」
光秀は言葉を遮り、自らも腰を落として遺体に手を伸ばした。
一見、手入れされた鎧に見えたが──
威糸は解れ、金具の合わせも粗く、戦場を知らぬ者の装備であることが一目で分かった。
「左様でございます。この鎧の作りも、我ら明智軍の物とは異なります。正規の軍装とは似て非なる者たち……」
左馬之助が言い終える前に、光秀は右手をそっと彼の口元へ上げた。
「それ以上は申すな」
その声音は低く、しかし確かな震えを帯びていた。
光秀の瞳は、遺体ではなく──
この場に残された意図を見据えていた。
そして、短く命じた。
「兼見殿に、『お会いしたい』と告げよ」
左馬之助は息を呑み、深く頭を下げた。
***
光秀は二条御所にいた。
御殿の前に夥しい数の亡骸が並び、そこに莚が掛けられていた。光秀は、その光景から目を逸らすように俯いた。
本能寺と二条御所では、明智軍の兵が黙々と戦場の処理を進めていた。強烈な陽光の下、兵たちの頬にこびりついた返り血は黒く固まり、徹夜の行軍と戦いで血走った眼だけが異様に光っていた。
光秀の到着を、利三が迎えた。
「ここにいた者は、ことごとく殺られたでしょう」
利三は隣接する公家屋敷の屋根を二か所指し、そして焼け落ちた御殿を指した。
「三か所からの砲撃に違いありませぬ……逃げる暇もなかったはず……」
家臣の一人が、利三に銃を持ってきた。
光秀はそれを見るなり、声を荒げた。
「短筒ではないか!」
短筒──噴射口が大きく、至近距離での殺傷力を高めた最新の武器だった。
光秀の表情は、すぐに曇った。
「雑賀衆か……」
利三は深く頷いた。
「奴らに違いありませぬ。火縄の練度、止まぬ攻め、焙烙玉も使っておりました。瞬く間に火が燃え広がる様は……地獄絵図のようでした。本願寺との戦で、何度も見ましたゆえ……」
利三は言葉を詰まらせた。
「それに、これでございます」
利三は、棒状の鋭利な刃を見せた。
光秀は刃に触れ、低く呟いた。
「伊賀者か」
左馬之助は声を出さずに頷いた。
光秀はしばし黙り、公家屋敷の屋根を見、焼け落ちた御殿を見、忍びの刃を見た。
「利三なら……二百・三百で落せるか」
左馬之助の眉が動いた。だが口を挟まなかった。
利三が冷静に答えた。
「無理でございますな。少なくとも五百は要ります」
「五百か……」
光秀の指が顎に触れた。
三人は亡骸の莚を外し、そのたびに手を合わせた。
そして――
亡き友の変わり果てた姿を見た。
光秀は、ゆっくりと腰を落とし、貞勝の手を取った。
「このことを……知らせようとして……」
亡き友に語りかける男は、一度だけ天を仰いだ。灼熱の陽が真上から降り注ぎ、一筋の水が頬を伝った。
光秀は貞勝の手を包み込むように握り、何かを呟いた。
***
光秀は、供回りだけを連れ、京の通りを東へ向かっていた。
ただ見つめる者、京を離れようと荷をまとめる者、略奪を恐れて店を閉める者──光秀は馬上から、静かに見つめていた。
だが、心は別のところにあった。
これからどう動くべきか。
何を正し、何を止めねばならぬのか。
光秀は、粟田口の青蓮院の宿坊に到着した。着替える間もなく、鎧のまま中に入った。庭園を見渡せる間に通された。
鐘の音が響く。
僧たちが祈りを捧げる時を告げる音だった。
風に乗り、焼けた煙の匂いが微かに漂う。
水のせせらぎ、砂利を踏む足音──静けさの中に、京の混乱が滲んでいた。
光秀は鎧を着たまま、大きく息を吐き、目を閉じた。
(数えきれぬ命が……半日で消えた。もう止めねばならぬ……この乱世を……静かな世を、民は待っておる……)
その時、遠くから馬の駆ける音が近づいてきた。
吉田兼見であった。
信長が京を掌握するにあたり、最も信頼し、重用した公家(神職)が吉田兼見だった。兼見は日ノ本の神社を統括する「吉田神道」の長であり、独自の情報網を持っていた。朝廷・公家・寺社・武家・町衆に至るまで、幅広い人脈と情報を有していた男だった。
兼見は息を切らせ、間に入ってきた。
甲冑姿の光秀をじっと見つめていた。
その目には──驚き、戸惑い、そして恐れが浮かんでいた。京の都を再び乱した人物として見ていた。
兼見の目を見て、光秀が口を開いた。
「私ではありませぬ――」
兼見は、息を整えたまま静かに言った。
「光秀殿、手遅れだ。もう都の民は、貴殿が信長様を討ったと信じておる。今さら否定したところで、誰が信じるのです……」
その声音は、驚くほど冷静だった。
「なぜ、真っ先に安土へ入られぬ」
光秀はその問いに、じっと兼見を見つめ返した。
「動かしたくとも……動かせなかったのです……」
兼見は目を細めた。
「今は――動かしておりますな。こちらに向かっておる」
光秀は深く息を吸い、静かに言った。
「私の話を……聞いてくだされぬか」
ここで光秀は、焼失した本能寺で見た光景を語り始めた。
兼見は視線を逸らさず、光秀の目を見続けていた。
「いったい誰が揃えたのでしょうか……」
光秀の問いに、兼見は大きく息を吐いた。
「信長様は敵が多かった。それは貴殿が、いちばんよくご存じであろう」
だが──
光秀は退かなかった。
「なぜ明智なのです――」
兼見は答えなかった。
光秀は、声を震わせずに言った。
「貞勝殿も亡くなったのですぞ――兼見殿」
京都所司代・村井貞勝と、兼見は幾度となく囲碁を打ち、酒を飲むほどの親友であった。光秀は、そのことをよく知っていた。
しかし──兼見は姿勢を正し、淡々と告げた。
「私もすべてを存じ上げているわけではない。そこもご理解くだされ、明智殿」
兼見は光秀との面会を終え、静かに席を立った。そして、馬の手綱を持ち続けていた近習に、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「書き換えねばの――」
***
光秀は本能寺、二条御所に兵千を割き、左馬之助に焼け跡の捜索を命じると、本隊を率いて安土城へ向け進軍を開始した。
斎藤利三の部隊は、早朝の激戦による疲労のため、隊列の最後尾につくこととなった。
粟田口を出た明智軍一万二千は、山科を経て瀬田へ向かっていた。道は狭く、隊列は長く伸び、進軍は遅れがちだった。それが、この後の悲劇を招くことになる。
陽が西に傾き始めた頃、本隊は逢坂の関所に達した。山間の道を抜ければ、あと二里(約八キロ)で瀬田に到着する位置だった。
その時、甲冑の音を激しく響かせ、数名の兵が光秀のもとへ駆けてきた。部隊の先頭を進んでいた物見たちであった。
兵の一人が乱れた息を整え、声を張り上げた。
「申し上げます!瀬田の橋が、燃えております!」
光秀は報告を受け、馬上から瀬田の方角を見つめた。だが南東の山裾が張り出し、煙は見えない。
「確かか……」
光秀は念を押した。
「ハッ!」
物見は強く頷いた。
光秀の肩が、静かに沈んでいった。
瀬田の橋は、瀬田川にかかる戦略上の要衝であった。京から東国へ向かう者は、必ずあの橋を渡らねばならぬ。安土へ向かうにも、同じである。
「先頭隊に伝えよ。迂回して坂本へ向かえ」
兵たちは深く頭を下げ、すぐさま駆け戻っていった。
光秀は側に控えていた藤田伝吾へ声を掛けた。
「本隊も坂本へ向かう。伝吾……大工頭を連れて見に行くぞ」




