プロローグ
天正十年(一五八二年)、六月一日――。
この夜も、本能寺は賑わいに満ちていた。
広間には織田信長と嫡男・信忠の供衆が集い、明日からの中国遠征を控えた男たちの熱気と笑い声が渦巻いていた。生と死が隣り合う武士たちの、独特の昂であった。
一方、奥書院では行灯の火が微かに揺れ、盃に酒を注ぐ音だけが静かに響いていた。
「父上、いよいよにございますな」
嫡男の信忠は父の盃を満たし、酒を盆に戻した。
「うむ」
信長は短く応じると、酒を一息に飲み干した。
「飲め、勘九郎(信忠)」
「ハッ」
信忠は父から注がれる酒を見つめていた。
嫡男・信忠は明日からの中国遠征には加わらず、京に残り、後詰(後援部隊)として控えることが決まっていた。
「明智殿の軍勢が加われば、さしもの毛利も退くでしょう」
信忠が酒を注ぐと、信長はふっと笑みを漏らした。
「三七(弟の信孝)と丹羽殿(織田家宿老の丹羽長秀)は四国討伐……」
信忠の声は酒気を帯び、今にも勝鬨を上げそうな勢いだった。
「三七は、どうしておる。長宗我部をすぐに討つと息巻いておるのであろう」
信長は信忠の言葉を遮った。
信忠は父の洞察に頬を緩めた。
「はい。三七は父上の背中ばかり追っております。時に危ういほどに」
信長の肩が小さく上下した。
「あやつは世の真似事ばかりよ。古参の者どもは世に似ておると言うが、あそこまで危うくはなかった」
信長は笑みを浮かべ、酒を飲み干した。
信忠が銚子を傾けようとすると、空になっていた。それを近習に示すと、肌の黒い大男が新たな銚子を静かに差し出した。
「父上、この者も……」
信忠が一瞬だけ大男を見た。
信長は短く言った。
「弥助も連れてゆく」
そして、ふっと声を落とした。
「のお、勘九郎……今宵は泊ってゆけ」
信忠は、父の穏やかな口調と、どこか名残惜しい表情に戸惑いを覚えた。明日からは中国出兵、天下統一も目前だというのに、なぜ父はこんな寂しげな顔をするのか──。
息子ならではの鋭い予感が、胸を刺した。
「いえ、父上。お供の者が多うございますゆえ、皆を連れて宿所へ戻ります」
信忠は立ち上がり、信長は座したまま息子を見つめ、大きく頷いた。
これが──
親子最後の時であった。
信長の瞳は、息子の姿が見えなくなるまで追い続けていた。




