ハイorロー①
9月9日火曜日
依頼人 1-2 赤沢御園 1-3 原口達馬
調停人 夕月優利
使用したゲーム ハイorロー
「プリントは、こちらでよろしかったでしょうか、先生」
「ん、ああ。そこに置いといてくれればいい」
既に放課を迎えて久しい本校舎一階、資料室の中で。
山のように積み重なったプリントに囲まれながら、僕――夕月優利は手にしていた束を机に下ろし、小さく息を吐いた。
室内には紙とインクの匂いがこもり、手にはまだ印刷したての紙のわずかな熱が残っている。
額の汗を腕で拭い、僕は松井先生へと視線を向けた。
中年の教師は、同じように汗をにじませながら腰に手を当て肩を震わせている。
少し間を空けて、息を整えた松井先生が口を開いた。
「……ふぅ。これで作業は全部だ。お疲れさん。本当に助かったよ」
「いえ。力になれたのならそれでよかったです。いくら大人と言えども、一人でこの量を運ぶのには相当な労力を要しますから」
「ほんっとうに、お前が偶然通りがかって手伝いを申し出てくれてよかったよ。それにしても、あんな人のいないところで何してたんだ?」
「教室の戸締まりをして、鍵の返却の途中だったんです。ちょうど掃除当番に割り当てられていたので、それのついでですよ」
「そうか。さすがは我らが一年一組の委員長様だな。お前がいてくれなきゃどうなってたことやら」
「困っている人を助けるのは当然のことですから。それに通りがかったのが僕でなくても、きっと同じことをしたはずです」
「いやいや、教師歴15年の俺から見ても、お前みたいな生徒は珍しいぞ?最初は中学の時の話もあったから、内申点だとかご機嫌取りだとかを疑ってたが、今ではお前のすることは100パーセントの善意だと思ってる」
「大袈裟ですよ。それに僕だって、すべてを善意に従って動くわけではありません。ただ、今回は先生を助けることを優先すべきだと思いましたので」
「ほぉっー」と感嘆の息を漏らす先生をよそに、僕は時計に視線を向ける。時刻はすでに4時半を過ぎていた。
グラウンドからは運動部の掛け声が弾み、耳を澄ませば吹奏楽部の練習音が微かに聞こえる。
「そろそろ、僕は失礼しようと思います。部活動に向かわなければならないので」
「ん?ああそうか、そうだったな。にしてもお前らも大変だな、あんなボロくて古くさい校舎で活動なんて。ゲーム部といえば、この学校の顔ともいえる部活だろ?部室をこっちに移すか、いっそのこと取り壊すかすればいいのにな」
「確かに、不便だと思ったことはありますが、それほど悪いものでもありませんよ。それに、静かな方が活動に専念できますし、僕には気が楽です」
「そういうもんかね」と納得しながら資料室を出る松井先生に僕も続く。
蒸し暑かった室内とは対照的に廊下はひんやりとしており、人は僕と松井先生の他に誰もいなかった。
静寂の中に、扉を施錠する音だけが響く。
「それじゃあ、改めて礼を言うよ、夕月。助かった。ありがとうな」
「お気になさらないでください。困った時はお互い様、というのは少し違うかもしれませんが、生徒が教師を手伝うのは当たり前のことです」
「はは。じゃあ、今度何かあったら俺がお前を助けないとな。もちろん、何もなくても教師である俺を頼ってくれていいが」
冗談めかした口調で先生が笑う。
「よし、これで手伝いは終わりだ。気をつけて部活動へ行くんだぞ」
「はい。では失礼します」
そう僕を労うと、先生は慌ただしく職員室の方へと去っていった。
先生にとっても、この作業は数ある仕事の一つに過ぎず、片付けなければならない業務は他にも山ほど残っているのだろう。
一度頭を下げ、それから先生の姿が廊下の先へ完全に消えたことを確認してから、僕も昇降口へ向かって歩き出す。
静まり返った廊下には、僕の足音だけが規則正しく響いていた。
昇降口で上履きを脱ぎ、履き慣れたスニーカーへ足を通す。
そのまま玄関口の扉を押し開けると、途端にむわりとした熱気と土の匂いが全身を包み込んだ。
九月初旬とはいえ、晩夏の日差しはいまだ衰えを知らず、容赦なく肌を照りつけてくる。眩しさに軽く目を細めながら、僕は一度大きく背筋を伸ばした。
これから向かうのは、グラウンドの対岸に位置する古びた校舎――副校舎の一室にある、ゲーム部の部室だ。
右手のグラウンドでは、すでに多くの部活動が練習を始めており、飛び交う掛け声や舞い上がる砂煙が、放課後らしい喧騒を作り上げている。
普段であれば、本格的に活動が始まる前に横切らせてもらうのだが、今のこの状況ではそうもいかない。球や人が絶え間なく行き交う様子を見れば、無理に突っ切る気には到底なれなかった。
自然と足は、喧騒を避けるように外周ネット沿いの道へと向かう。
行き交う部員たちを横目に、踏み出す足が無意識に速まっていく。
それは遅刻への罪悪感からだけではなく、憂いからくるものだ。
視界の先、ネット越しに見える副校舎の一室。
そこにいるであろう二人の男女。
「二人きり」という言葉に、どうしても不安を拭えない。
たしか以前にも、似たようなことはあった。
そうしてその経験則からすると、僕の不在とあの二人だけの密室という状況からは、ろくな答えが導きだされない。
「杞憂で終わってくれればいいんですが……」
小さくそう零しながら、僕は副校舎へ向かう足をさらに早めた。
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外周をネットに沿って歩くことおよそ2分。
やがて視界の先に、二階建ての古びた木造校舎が姿を見せた。
反り返った外壁に所々剥がれ落ちた塗装。
遠目にも分かるそれらの劣化に加え、木材が湿って腐ったような柔らかな匂いは、この校舎の現状を何よりも雄弁に語っている。
現代的な鉄筋コンクリートからなる本校舎とは対照的なその姿は、どこか異質であり、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うささえ感じるが、この副校舎は紛れもなく、僕たちゲーム部の活動拠点だ。
急かす気持ちを抑えながらも、正面入口より中に入ると、校舎の中は湿っぽく、木材と土の入り混じった匂いが香り立って、数少ない来客を歓迎しているようだ。僅かなホコリっぽさを手で払いつつ、慎重に廊下を渡って行く。
ゲーム部の部室は先ほど通った正面入口のちょうど真上に位置しているが、二階に上がるためには廊下を渡った先の階段を利用しなければならない。そのため、部室へとたどり着くには古びた廊下をそれなりの距離歩き続ける必要があった。
一歩、一歩と前へ進む度に、足元からはギシギシと耳障りな音が奏でられ、それがいっそう僕の不安を煽る。
そうしてその不協和音は、まるで僕の心境に寄り添うかのように階段を上り始めてからも変わらず、二階からはさらに、足元が突き抜ける恐怖に逆らいながら突き進まなければならない。
この二階の廊下を渡ることは、生徒――特にゲーム部員の間ではチキンレースと称されている。
顔も知らない誰かが踏み抜き、補修工事が早まるのが先か。あるいは、自分自身がその栄誉ある犠牲となるのか。
少なくとも後者は御免だと、そんな我ながらおかしなことを考えていると、いつの間にか廊下を渡りきっており、部室の前扉までたどりついていた。
僅かに開かれた扉の隙間からは西日が細く漏れ出ているものの、しかしその先から物音はない。
……いや、微かに音が聞こえる。
サクッ、サクッ
と軽快な音が。
まさか。いや、そんな、まさか。
サクッ、サクッ
と再びの、音。
――恐れていたことが起きてしまった。
扉の取っ手にかけた右手が、僅かに震える。
それを誤魔化すように「ふぅー」と小さく息を吐いて、僕は静かに覚悟を決めた。
第一声は遅刻の謝罪から入る。
そう心に決め、意を決して扉を開け放つ。
だが、そんな僕のささやかな決意は。
「……坂神くん、鳳さん…………またですか」
目の前に広がる惨状――机の上の菓子袋の山々と、それを頬張りながら互いに会話なくスマホに視線を落とす二人の男女、坂神春樹と鳳呉羽によって、あっけなく打ち砕かれた。




