職場の「城」と、勇者の沈黙
オフィスに入った瞬間、ツチヤ(49)は空気の密度が変わったのを感じた。
「……おはよう、ございます」
蚊の鳴くような声で挨拶し、自分の席に滑り込む。五十肩の鈍痛よりも、昨夜の誤爆による胃の痛みが勝っている。
「ツチヤさん、おはようございます」
サキちゃんの声だ。いつも通り。だが、心なしか頬が赤らんでいるように見えるのは、俺の罪悪感が見せる幻覚だろうか。彼女は俺と目が合うと、すぐに視線を逸らし、パタパタと忙しそうに資料をまとめ始めた。
(……無視されたほうが、まだマシだった……)
ツチヤが絶望に沈んでいると、背後から「待ってました」と言わんばかりの足音が近づいてきた。宮川だ。
「おいツチヤ。昨日、お前から『面白いメッセージ』が届いたって、ヒトミちゃん……じゃなくて、サキさんから聞いてるぞぉ?」
宮川が嫌らしい笑みを浮かべ、ツチヤの肩に手を置く。その瞬間、ツチヤは心臓が止まるかと思った。
「サキさんに『俺の城に来い』だって? お前の城ってなんだよ。このゴミ溜めみたいなデスクか? 49にもなって勇者様気取りかよ、ボケが。死ねよマジで」
「……す、すいません……酒の勢いで……」
「まあいいや。そんなお前に『プレゼント』だ」
宮川がデスクに置いたのは、一枚の古びた仕様書と、一通の封筒だった。
「これ、隣の病棟の看護師から回ってきた不具合報告だ。お前、以前あそこのシステムの保守やってたろ? 現場まで行って謝罪と修正してこい」
封筒の差出人欄を見た瞬間、ツチヤは凍り付いた。
『〇〇総合病院・看護部 樹々(じゅじゅ)』
(……ジュジュ? まさか、嘘だろ……)
ゲーム内の「ジュジュ」と、宮川が持ってきた仕事の担当者名が一致する。
偶然だ、と自分に言い聞かせるが、昨夜の「病院代に困ってる」というメッセージが脳裏にこびりついて離れない。
逃げ場を失ったツチヤは、トイレに駆け込みスマホを開く。
そこには、ヒトミからの毒々しいまでの「癒やし」と、ジュジュからの「催促」が並んでいた。
『騎士様。今日、会社で宮川さんに怒られちゃったのかな? ……私のこと、ちゃんと見ててね?』
『しゃけ様ぁ! さっきの仕事、受けてくれたんだよね? 会えるの、楽しみにしてるよ!』
ツチヤは、目の前が真っ暗になった。
ヒトミ(宮川)は、俺の現実を嘲笑い、金を吸い上げる。
ジュジュ(看護師)は、俺の現実を侵食し、リアルな助けを求めてくる。
そして、サキちゃんは俺を「可哀想な、あるいは危ないおじさん」として意識し始めている。
「……しっちゃか、……めっちゃかだ……」
ツチヤは、個室の中で頭を抱えた。
夢の中の最強勇者「しゃけ」は、今や現実に引きずり出され、全方位から首を絞められている。
「……それでも、行くしかねえんだな……」
ツチヤは、カバンにデバッグ用のノートPCと、一本の日本酒(小瓶)を詰め込んだ。
現実という名の魔王城へ。
偽物の勇者が、震える足で踏み出した。




