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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)28鷗外の「獨逸日記」について

「舞姫」に関連して、森鷗外の「獨逸日記」(明治二十一年・1888年)を紹介する。 (獨逸日記 - Wikisourceより)


◇本文

 (七月)十五日。長沼守敬伊國ヱネチア Venezia より來る。余問ひて曰く。君伊國に在りしならば、必ず緖方惟直君の事を知るならん。僕の東京を發するや、其舍弟にして僕の親友たる收二郞より、惟直君の墳墓のことを聞き、僕の足其地を躡むことあらば必ずこれを弔せんと約したり。願くは其詳なるを語れと。長沼の曰く。惟直君の墳墓は予の領事舘の吏輩と議して建つる所なり。其地はチミテ ロ、サン、ミキエル Cimitero St. Michiell と曰ふ。業成る後之を日本に報じたりしが、果々しき返事も無し。惟直と惟準とは何如なる親疎の關係あるにか。墳墓は兎まれ角まれ、困難なるは惟直君の遺胤の事なりと。余驚き問ひて曰く。遺胤とは何如。長沼の曰く。惟直君はこれを日本政府に秘したれども、伊太利の一女子と宗門上立派なる結婚の式を行へり。既にして一女兒を擧ぐ。今母と共に存す。惟直君の歿するや、母子若干の遺金を得たり。而れども是金も亦竭きたれば、窮困の狀見るに忍びず。遺子の面貌は太だ惟直君に似たりと。余長沼に問ふに母子の居を以てす。曰く。家の番號などは記せざれどプゴ橋 Ponte di puguo といへる橋を渡り、收生女 Leratrice の家を問ふべし。母子此に寓せり。然れども君其貧苦の狀を見ば、必ず盤纏を輕くするならんと。日本人の歐洲に在りて兒を生ませしは、獨り惟直氏のみならず。既に伯林にも梅某の子、中村某の子あり。皆面色黃を帶び、骨格邦人に似たりと云ふ。梅某の情婦は余伯林に在りしとき、余と俱に一盞の咖啡を喫したることありき。客窓排悶の末、遺子を海外に留むるは、其情より論ずれば、復た怪むに足らず。唯〻撫育の費を送らで、母子をして飢餓に逼らしむるは、いと悲む可き事なり。獨乙の法、一兒の養育料は大槪一時二千麻を投じて足る。留學生の如き、此資力なくして醜を遺すならん。


◇口語訳

 (7月)15日。長沼守敬(彫刻家。イタリアに留学)が、イタリアのベネチアから来た。私は尋ねた。「あなたはイタリアにいるのであれば、きっと緖方惟直(おがたこれなお。緒方洪庵の5男。フランスに留学し、帰国後陸軍兵学寮教師やウィーン万国博の政府事務官などをつとめ、のちベネチア商業高等学校日本語教授となったが明治11年4月4日同地で病没。26歳。コトバンクより)君の事を知っているだろう。僕が東京から出発する時、彼の弟であり僕の親友である緒方收二郞から惟直君のお墓のことを聞き、『僕が其地を訪れることがあったら、必ず弔おう』と約束した。惟直君の詳細について語ってくれないか」と言うと、長沼が言うには、「惟直君のお墓は私の領事舘の官吏たちと協議して建て、チミテ・ロ・サン・ミキエルというところにある。このことは日本国に報告したのだが、何の反応も無い。惟直と惟準(これよし。洪庵の次男)とは親しい関係なのか。お墓はともかく、かわいそうなのは惟直君の遺された子供のことだ」と。私は驚いて尋ねた。「遺された子供とは何のことだ」。長沼が言うには、「惟直君はこのことを日本政府に隠していたのだが、イタリアのある女性と立派な結婚式を行い、女の子を儲けた。(その子は)今、母と一緒にいる。惟直君が亡くなった後、母子は若干の遺金を手に入れた。しかしその金も無くなってしまったので、(母子の)困窮は見るに忍びないほどだ。女の子の容貌は、とても惟直君に似ている」と。私は長沼君に母子の住所を尋ねた。(長沼君が)答えるには、「家の番地などはメモしてないが、プゴ橋を渡り、助産師の家を訪ねれば、母子はそこに身を寄せているだろう。しかしもしあなたが彼女たちの貧苦のさまを見たら、必ず支援したくなるだろう」と。日本人がヨーロッパにいて子供を産ませた例は、惟直氏だけではない。既にベルリンにも梅某の子や、中村某の子がいる。(その子供たちは)皆東洋人の肌色をし、骨格も日本人と同じだという。梅某の愛人は、私がベルリンにいた時に、私と一緒にコーヒーを飲んだことがある。旅先での憂さ晴らしの末に、遺子を海外に残すのは、その事情から考えると、決して不思議ではない。ただ、養育費を送らず、母子を飢餓状態に置くことは、とても悲むべきことだ。ドイツの法律では、子供一人の養育料はたいていの場合一度に2000マルクを与えれば十分だ。留学生などは、この財力なくしては、醜態によって子を遺すべきではないだろう。


※緖方惟直(Wikipediaより)

緒方洪庵の第10子で五男(1853-1878)。早くからフランス語を学び、1873年のウィーン万国博覧会で通訳を務めた。1875年にイタリアへ渡り、トリノで日本語教師となる。翌年当地の女性Maria-Giovanna Serotti(1855.8.14パドヴァ〜1890.10.27ヴェネツィア)と結婚。長女エウジェニア豊(1877-1967年)が生まれる。惟直は1878年に25歳で死去。豊は1890年に母親も亡くし、1891年に緒方家に引き取られ、加陽光太郎を婿養子に迎え二男三女をもうけた。


※緒方收二郞(Wikipediaより)

緒方洪庵の第12子・六男(1857-1942)。東京医学校を1881年に卒業し、東京大学雇及医学部眼科当直医となり、1883年東京大学御用掛、1886年に東京帝国大学助手となるも翌年辞職して緖方病院副院長となり眼科及外科の診察を担当。1889年から3年間滞欧し、帰国後緖方病院の院長を務めた。


 「鴎外と民法典の起草者たち」(七戸克彦)(s61.pdf (kyushu-u.ac.jp)) に、「2000マルク」は「かなりの高額である(鴎外の留学当時の年俸の半額に相当する)」とある。しかし、当時のマルクの価値を調べたのだが、良い資料が見つからなかった。

(つづく)

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