森鷗外「舞姫」29明治時代の国際結婚について1
「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」(小山騰)に、「日本で最初に国籍条項を取り扱った法律は太政官布告第103号であり、日本人と外国人の結婚を許可し、その場合の当事者の国籍の移動を規定している。日本で最初に国籍事項を制定した成文法が国際結婚を許可した法律なのである。」とある。太政官布告第103号は、明治6年(1873年)に制定されたもので、「この太政官布告の規定は原則として日本の国際私法である法例が明治31年に実施されるまで存続したのである。太政官布告第103号の下での国際結婚は日本政府による許可が必要であったので、国際結婚の個々の事例の史料が中央政府に残された。一方、法例の下での国際結婚は例外はあるにしても原則として日本政府からの許可は必要でなくなり、中央政府に国際結婚の史料が集中的に残されることはなかった。」とする。小山論文は、「太政官布告の下に日本政府から許可された明治6年(1873年)から明治30年(1897年)までの24年間の国際結婚の事例」を研究対象としている。なお、この布告以前にも、日本人と外国人の結婚はあった。
太政官布告第103号をまとめると、次のようになる。
・日本人と外国人の結婚には、日本政府の許可が必要。
・日本人男性と結婚した外国人女性は、日本国籍を得る必要がある。
・外国で、日本人が外国人と結婚しようとした場合は、その国にいる日本公使か領事官に願い出て許可を受ける必要がある。その場合、公使または領事官は、裁可の上、本国政府に届けなければならない。
小山論文では、「明治18年に太政官制度が廃止になり、内閣制度が設置されると、内務大臣が太政官の役割を引き継いだ。(中略)外務省は明治9年11月に在外公使および領事宛に指令を出し、(中略)当分の間在外公使または領事官が国際結婚の許可を裁可するのではなく、外務省経由で日本政府から許可を得るように指示している。(中略)その後、明治14年11月に至り、(中略)在外公使および領事官が裁許することになった」とする。また、「明治6年から明治30年までの24年間に日本政府から許可された国際結婚の総数はおよそ265件ぐらいではないかと推計することができる」とし、国際結婚は結構な数であったことが分かる。
論文にはさらに、さまざまな人物の外国人女性との結婚の例が示される。例えば西川虎之助(日本の実業家、化学技術者、大日本人造肥料取締役)はイギリス女性と在英中に結婚し、妻とふたりの娘を連れて帰国した。
また、尾崎三良(おざきさぶろう、日本の官僚、男爵)の離婚騒動にも触れている。これについてはWikipediaの説明が簡潔なので、それを載せておく。
「妻バサイア・キャサリン・モリソン…ロンドンでの尾崎と三条公恭の滞在先であり英語を習っていたウィリアム・モリソンの娘。父親はケンブリッジ大学中退後、地方の学校で教師となり、その後ロンドンで個人教師業と下宿屋を営んでいた。尾崎と1869年に英国で結婚したが(日本での届け出は1880年)、1873年に妻子を置いて尾崎が帰国したまま放置されたため、井上馨に書面で尾崎の欧州赴任を懇願、1880年に外務一等書記官としてペテルスブルクに赴任した尾崎と再会するも翌年離婚。離婚理由は、帰国中に尾崎が日本人妻を娶ったことを知ったバサイアが日本への同行を拒否したためとされる。長女の英子は義弟の洵盛に「父は母を捨てて帰国した」と語ったという。1885年に父ウィリアムが亡くなると金銭的に困窮し、駐ロンドン日本領事の園田孝吉に親子の窮状を訴え救いを求めたことから、この騒動が日本でスキャンダルとなったが、バサイアは離婚後もオザキ姓を名乗り続け、尾崎の悪口を聞くと怒ったという。」(Wikipediaより)
この尾崎の騒動は、鴎外自身のエリーゼ騒動や太田豊太郎を想起させる。小山論文では、「尾崎三良が離婚する明治14年当時、尾崎三良は外国人との結婚をめぐるスキャンダルの象徴であった様子で、駐独全権公使であった青木周蔵が自分の部下である棚橋軍次のドイツ人女性との結婚の許可を外務卿井上馨に求めた手紙の中で、青木は棚橋軍次の性質は、『彼尾崎、栗本、飯塚輩之比に非ず』と述べ、スキャンダルの代表として尾崎三良、栗本貞次郎、飯塚納の3名を上げている。」とする。
この他の主だった例として、ドイツ駐在公使の青木周蔵は、明治10年にエリザベット・フォン・ラーデとドイツで結婚した。また、松野 礀(まつの はざま。日本の林学者、林学教育者。ドイツ留学を経て日本への山林科学・林学導入と人材養成の基礎作りに貢献した。Wikipediaより)の配偶者はベルリン出身のクララで、1876年(明治9年)8月に来日、ドイツで知り合った松野礀との結婚が12月に正式に許可された(日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第一号)。
小山論文の、「国籍による国際結婚の分析」の章には、日本人と結婚した相手として、「ドイツ32(男14、女18)」とあり、日本政府に届け出があっただけでも、結構な数の国際結婚が、日本人男性とドイツ人女性の間に成立していたことが分かる。この他の例を見てみると、日本人男性と外国人女性の結婚数は、多い順にイギリス12、アメリカ12、フランス5などであり、ドイツ人女性18人が最多であることが分かる。
つまり、この時代において留学生の国際結婚はそれほど珍しい事ではなく、また、ドイツ女性との結婚の数が一番多いこと、それが日本政府の公認であること、また妻や子供とともに来日した人も複数いることなどから考えると、太田や天方伯、相沢たちがあれほどエリスを忌み嫌った理由が不明だ。エリスがバレリーナという卑賎な職業に就いていたことくらいしか理由として考えられない。
簡単にまとめると、他にも同じような例がすでに何組もあるのだから、エリスとその子を伴って帰国することもできたのではないかということだ。なぜ天方伯側はそれを認めなかったのだろう。太田自身、その選択肢がなぜ全く眼中になかったのだろう。日本人男性と結婚して来日後、幼児教育に力を注いだ外国人女性の例もある。また、たとえ天方伯に用いられなくても、太田は家族と帰国し、何らかの職に就くことも可能だったのではないか。このように、さまざまな疑問がわいてくる。
ただ、先ほど挙げた「独逸日記」の中に、「客窓排悶の末、遺子を海外に留むるは、其情より論ずれば、復た怪むに足らず。」とあり、いわば「旅の恥は掻き捨て」のような感覚が、鴎外自身にあったのではないかと考えられる。外国留学中の憂さ晴らしに現地の女性と懇意になり、子を儲けたとしても自分一人で帰国する例はあったし、鴎外もそれは仕方が無い事と考えていたということだ。
この感覚を、エリスは到底首肯できないだろう。彼女の愛は本気だからだ。自分と夫とお腹の子と母親という「家族」を成り立たせるための方策を、彼女は真剣に考えていた。貧しいながらも幸せな生活を、エリスは望んでいたのだ。そうであるならば、やはり太田は、自分の行動の責任を取らなければならなかった。彼はすべてを他者と偶然のせいにし、苦悩しているふりをして、それでもやはり帰国するという決断を変えようとはしない。太田の苦悩は、エリスには理解されないだろうし、そのような鬱屈に沈むのではなく、現実の生活を営んで欲しかっただろう。エリスは太田との交際によって、また、お腹の子を意識することによって、ひとりの女性・生活者へと成長している。それに対する太田の不甲斐なさを読み取る読者は多いだろう。
(つづく)




