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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)21~否、君を思ふ心の深き底(そこひ)をば今ぞ知りぬる

◇本文

 又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き(そこひ)をば今ぞ知りぬる。君は故里(ふるさと)に頼もしき(やから)なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは()まじ。それもかなはで(ひんがし)に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処(いづく)よりか得ん。(いかな)る業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。(たもと)を分つはたゞ一瞬の苦艱(くげん)なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令(よしや)いかなることありとも、我をば(ゆめ)な棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管(ひたすら)君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。 (青空文庫より)


◇口語訳

 また、少し経ってから届いた手紙は、ひどく思いつめて書いたもののようだった。手紙を、「いいえ」という文字で書き始めていた。「いいえ、あなたを愛する心の深い底をいま知った。あなたは故郷に親しい家族・親戚がいないとおっしゃるので、ここドイツでよい生活の手段があれば、とどまりなさらないことがあるでしょうか。(いいえ、きっとここにいてくださいます) それに、私の愛で(あなたをここに)きっとつなぎ留めます。それもかなわず日本に帰りなさるつもりなら、親とともに行くのは簡単だが、あれほど多額の旅費をどこから得ようか。(旅費を得る手立てはないので、)どのような仕事をしてでもここにとどまり、あなたが出世なさる日を待とうといつも思っていたが、短期間の旅だと言って出発なさってから20日ほど経ち、別離の悲しみは日に日に強くなっていくばかり。別れは一瞬の苦しみだと思ったのは、間違いだったわ。私の身ごもった体の変化が次第にはっきりしてきたこともあるから、たとえどのようなことがあっても、決して私をお捨てにならないで。母とはひどく争った。しかし私が以前とは違って心に堅く決めているのを見て、(母は)諦めた。私が日本に行く日には、ステッチンあたりの農家に、遠い親戚がいるので、(そこに)身を寄せようと言った。(あなたが)書き送ってくださったように、大臣様に重用されなさったら、私の旅費はどうにか都合がつくだろう。今はただ、あなたがベルリンにお帰りになる日を待つだけです」


◇評論

 エリスのこの手紙は、以前の手紙に増して、太田への強い愛が表現されている。「否、君を思ふ心の深き(そこひ)をば今ぞ知りぬる」とは、「これまでどれほど深くあなたを愛していたか、自分でもよく知っているつもりだったが」という気持ち・表現が、この前に隠れている。「あなたへの私の愛の強さを分かっていると思っていたのだけれど、あなたと離れて、これほどまでに強くあなたを求めていたということに、いま初めて気づいた」という意味。巧みに表現しようとしないところに、逆にエリスの思いの強さが現れ伝わる表現となっている。エリスは自分の命を懸けて、愛を貫こうとしている。

 この部分には、エリスの強い思いを表す表現が多用される。「否」で始まる文。「君を思ふ心の深き(そこひ)をば今ぞ知りぬる」の強調の係り結び。「此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある」の反語(反語は強調表現)。「又我愛もて繋ぎ留めでは()まじ」の打消意志。「(いかな)る業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ため」の強調の係り結び。「縦令(よしや)いかなることありとも、我をば(ゆめ)な棄て玉ひそ」の禁止。「今は只管(ひたすら)君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ」の限定。これらはすべて、エリスの太田への深い愛を表した表現となっている。


 そうしてエリスは、単に愛に溺れるだけではない。現実的なものの考え方や予測をするのだ。「君は故里(ふるさと)に頼もしき(やから)なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある」というのは、愛するふたりならば当然のことだ。解雇され、日本に血のつながりもないとなれば、ドイツに留まる障害は何もない。エリスは論理的に考えている。そうして彼女はそれに、「又我愛もて繋ぎ留めでは()まじ」と、自分の真心を添える。「それもかなはで(ひんがし)に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど」は、エリスが太田とともに日本にわたる決意を示す。エリスは、太田と一緒にいることだけを願っているのだ。

 「か程に多き路用を何処(いづく)よりか得ん。(いかな)る業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひし」には、帰国の旅費がまかなえない場合の想定が示される。旅費の都合がつかなければ、ドイツにいるしかない。その場合は、太田の出世を願おうということ。 

 「暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。(たもと)を分つはたゞ一瞬の苦艱(くげん)なりと思ひしは迷なりけり」

 あなたと別れてもう20日も経ってしまった。あなたはこのまま永遠に帰って来ないのではないかとさえ思ってしまう。と太田を慕う気持ち。

 「我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令(よしや)いかなることありとも、我をば(ゆめ)な棄て玉ひそ」

 これは太田に対する脅しの言葉ではないが、しかし現実として自分のお腹には赤ちゃんがいるということを示したもの。自分だけでなく、この子もあなたの帰りを待っている。三人で幸せに暮らしましょう、ということ。「我をば(ゆめ)な棄て玉ひそ」というエリスの悪い予感は当たってしまうことになるのだが、エリスは最近の太田の様子から、こうなってしまうのではないかと予感していたのではないか。天方伯や相沢との交流の楽しそうな様子。ロシア行きの準備をする姿。自分とこの子は捨てられるという恐怖が、静かにエリスを包む。

 「母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」

 エリスの決意は母をも動かす。エリスの望みはただ、太田と自分とお腹の子供と三人で暮らすことだ。母は母で、自分が身を引くことで、娘の幸せを願っている。

 「我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたる」からは、太田と交際し、子を身ごもり、日々の生活を重ねることで、エリスが人間的に成長している様がうかがわれる。エリスは、自分で考え、意志を持ち、決断する人になっているのだ。いつまでも「掌上の舞」をする少女のままではない。

 「書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管(ひたすら)君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ」

 ここも、現実的なものの考え方をするエリスの様子がうかがわれる。彼女の論理に齟齬はない。ごく当然の思考過程を、エリスはたどる。


 たがいに愛するふたりであれば、これほど深く自分を愛してくれている相手に対しては、感謝の念しか浮かばないだろう。母と別れてまで、故郷を離れてまで、あなたと一緒にいたいという愛情。それを受けた者は、喜びと相手への情愛がさらに増すはずだ。

 しかし、太田は、違っていた。彼は次の場面で、「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり」と嘆くのだ。そうして、大臣が自分を信頼してくれていること、自分に「未来の望み」をつなぐチャンスが巡ってきていることに、「心づく」(気づく)のだった。

 強い愛の訴えに感動するのではなく、日本での出世のチャンスがやって来たことに気づくという全く反対の事柄に思い至る太田。

 エリスは母になろうとしている。太田との生活をどう成り立たせるかを現実的に考えている。それに対して太田は、相変わらずの子供だ。自分の夢を追うのはいい。しかしそこには、エリスと子供もいなければならない。その責任と自覚が求められていることに、太田は思い至らない。エリスの成長に対する太田の未熟さがはっきりと表れた部分だ。

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