関東諸侯の皇帝擁立計画
191年
献帝が幼少で、董卓の傀儡となっており、関塞(函谷関と桃林塞を指す)で遠く隔てられていて安否も分からないため、関東諸将が議論し、袁紹と韓馥が宗室の賢儁(賢才・英俊)である幽州牧・劉虞を主に立てようとした。
董卓との対立構造を維持し続けたいという思いも袁紹にはあっただろう。董卓とは断固として戦うという意思を示すための行為であった。
しかしながらこれはいけないと考えたのは曹操である。彼は袁紹にこう言った。
「董卓の罪は四海に暴露されている。我々が大軍を結集して義兵を挙げてから、遠近で響応しない者がなかったのは、義によって動いたからである。今、幼主は微弱で姦臣に制されているが、昌邑(西漢の廃帝・劉賀)のような亡国の罪があったわけではない。それなのに一旦にして廃立すれば、天下の誰が納得するだろうか。諸君が北の劉虞に従っても、私は西の献帝に従うだろう」
はっきりとここまで述べているところから曹操と袁紹の距離は近いことがわかる。
それでも韓馥と袁紹は劉虞の皇帝にするという考えを捨てずに袁術に書を送ってこう伝えた。
「帝は孝霊の子ではないため、絳・灌(前漢の周勃と灌嬰)が少主を誅廃し、代王(文帝)を迎えて立てた故事に基き、大司馬・劉虞を奉じて帝に立てることを欲する」
ここで袁術は袁紹らの意見に反対した。意外だったのか袁紹は再び袁術に書を送った。
「今、西は幼君がいると称しているが、霊帝の子ではない。公卿以下は皆、董卓に媚びて仕えているため、どうしてまた彼らを信じられるだろうか。兵を送って関要(関所・要塞。要衝の地)に駐屯させて、長安を孤立させれば、彼らは困窮して自滅する。東に聖君を立てれば太平を望めるのに、なぜ躊躇するのか。また、室家(袁隗らの家族)が殺戮されたのに父と兄の仇を討った伍子胥を念じず、今後も北面することができるのか?」
ここで感情論を振りかざし、袁紹は袁術の同意を求めた。しかしながら袁術はこう答えた。
「聖主は聡叡で周の成王の質がある。逆賊・董卓が危乱の際を利用して百寮を威服しているが、これは漢家の小厄(小さな災難)の時に遇っただけだ。それなのに陛下には血脈の属がないと言うのは、誣言ではないか。また、室家が殺戮されたのにそれでも北面できるのかと言うが、これは董卓が為したことだ。どうして陛下の責任なのだ。慺慺赤心(「慺慺」は恭勤な様子、「赤心」は忠心)の志は董卓を滅ぼすことにあり、他の事は知らない」
ここでの袁術の言は見事としかいいようがない。袁紹の述べていることへの問題点を的確に指摘していると言える。しかしながら後の彼の行動を踏まえて考えると彼の言葉が献帝を思いやった言葉ではなく、劉虞という評判の良い皇帝が生まれることを問題視したに過ぎない。
彼もまた、献帝をそこまで尊重はしていないのである。
しかしながらここでの言動が袁術の名声を支えるものになるのだから皮肉である。
曹操、袁術と反対する者がいるにも関わらず、韓馥と袁紹は元楽浪太守・張岐らを派遣し、劉虞に建議の内容を報告して尊号(帝号)を贈った。
しかし劉虞は張岐らに会うと厳しい口調で叱責した。
「今、天下が崩乱して主上が流亡しているのに、私は重恩を蒙りながら国の恥を雪ぎ清めることができずにいる。諸君はそれぞれ州郡を拠点にしており、共に王室のために力を合わせて心を尽くすべきなのに、却って逆謀を為すことで私を汚そうとするのか」
劉虞は頑なに拒否して結局帝位に即かなかった。
韓馥らは劉虞が尚書の政務を兼任して承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって封侯・任官を行うことを請うた。
しかし劉虞はこれにも同意せず、匈奴に奔って自ら隔絶しようとした。
そのため袁紹らは劉虞擁立をあきらめた。
そもそもなぜ、これほど袁紹は別の皇帝を立てるということに固執したのだろうか?
袁紹はこう考えたのはないだろうか。別の皇帝を立てることで董卓軍を自分たちの領域に引き込もうとしたのではないか。董卓が別の皇帝を立てたと聞けば、天に太陽が二つあってはならないようにこちらの皇帝を否定するために出兵しなければならない。そう考えたためではないか。
袁紹は連合の失敗を董卓の長安遷都によるものであるという考えがあり、長安まで攻め込むのは難しいというのが彼の考えであったのだろう。
彼は董卓軍と真っ向からこちらの有利な地で戦うために皇帝を立てたいと思ったのだろう。
だが、袁紹の考えのように劉虞を皇帝に立てれば、献帝の権威を損なうことになり、董卓にとって献帝は用済みとなる可能性の方が高く、その他の地でも皇帝を自称する者が現れていき、やがては新末のような各地で皇帝が乱立するような事態にまで発展する方が可能性としては高い。
袁紹は虚を突く策を思いつくのは案外上手いが、視野が狭い。
関東諸侯が自分たちの皇帝を擁立しようとしている中、孫堅は董卓軍相手に奮闘していた。




