王芬
元太丘長・陳寔が世を去った。
海内から弔問に訪れた者は三万余人に上るほどであった。
陳寔は郷閭にいる時は公平な心で人々の模範になり、争訟(訴訟)があったらいつも民は陳寔に判正(判決)を求め、陳寔が曲直(正否・善悪)を諭して導いたため、退いてから怨みを抱く者はいなかった。
人々は嘆息してこう言うようになった。
「官府から刑罰を加えられることはあっても、陳君から批判されたくはない」
楊賜や陳耽が公卿に任命される度に全ての群僚が祝賀したが、二人は陳寔が大位に登っていないことを嘆息し、陳寔より先に任命されたことを慚愧した。
多くの人々にこれほど慕われた人は稀である。
188年
太常・劉焉が王室の多難を見て建議した。
「四方の兵乱は、刺史の威信が軽く、兵乱を禁じることができないうえに相応しくない人を用いているため、離叛をもたらしていると考えます。刺史を改めて牧伯を置き、清名の重臣を選んでその任に居させるべきです」
彼はそう述べつつ内心で交趾牧になることを望んでいた。
(この王朝は長くない)
それに殉じるほどの忠誠心の無い彼は巻き込まれたくないため僻遠(辺鄙で遥遠な地)である交趾に行くことで禍を避けようと考えたのである。
しかしながら中々許可をもらうことができなかった。すると侍中・董扶が彼の元にやってきた。董扶は図讖を学んでおり、何進に推挙されて侍中になった男である。
彼は秘かに劉焉に言った。
「京師はもうすぐ乱れます。益州の分野に天子の気があります」
(天子の気……)
益州と言えば、高祖・劉邦が立ち上がった地でもある。そこで天子の気があると知った劉焉は改めて益州牧を望むようになった。
ちょうどこの頃、益州刺史・郤倹が賦税を重くして暴政を行っており、その批判の声が遠くまで聞こえていた。
当時は涼州刺史・耿鄙も并州刺史・張懿も暴政を行っていたことから盗賊が発生し、盗賊に殺されていたため、朝廷は劉焉の建議に従い、列卿や尚書から選んで州牧を任命した。それぞれ本来の秩のまま任に就いた。
劉焉が益州牧に、太僕・黄琬が豫州牧に、宗正・劉虞が幽州牧になった。
ここから州長官の責任や権力が重くなっていくことになる。
劉虞はかつて幽州刺史になったことのある男で、民夷(漢人と異民族)がその恩信になついたため、今回また幽州牧に選ばれた。
董扶と太倉令・趙韙はどちらも官を棄て、劉焉に従って蜀に入った。
その頃、益州賊・馬相、趙袛らが緜竹で挙兵し、自ら黄巾を号して刺史・郤倹を殺した。
更に巴郡を侵して郡守・趙部を殺し、犍為に進撃した。
一月足らずの間に三郡を破壊し、数万の衆を擁して天子を自称した。
しかし、そこに益州従事・賈龍が吏民を率いて馬相らを攻め、数日で破って走らせた。馬相は殺され、州界が清静になった。
賈龍は吏卒を選んで益州牧・劉焉を迎え入れた。
劉焉は治所を緜竹に遷し、離叛した者を順撫して受け入れ、務めて寛恵を行って人心を収めた。
この頃、元太傅・陳蕃の子・陳逸が冀州刺史・王芬の坐(席)で術士・襄楷に会った。
襄楷が言った。
「天文は宦官に対して不利です。黄門、常侍が真に族滅します」
陳逸はこれに喜び、王芬も、
「もしそのようであるならば、私が宦官を駆除することを願う」
と言い、野心をみせた。王芬は許攸や豪傑と連絡を取って招き合い、計策を練った。
王芬らは朝廷に上書して、黒山賊が郡県を略奪しているため、それを理由に兵を起こす許可を求めた。
ちょうど霊帝が河間の旧宅(解瀆亭侯だった頃の邸宅)に北巡しようと欲していたため、王芬等は武力で徼劫(襲って脅迫すること)して諸常侍・黄門を誅殺させ、それを機に帝を廃して合肥侯(詳細は不明)を立てようと謀った。
王芬らはこの謀を曹操に告げた。
黄巾討伐の後、曹操は済南相に遷っていた。
済南国には十余の県があったが、当時の長吏は貪婪に賄賂を受けとり、貴勢に頼っていた。そのため今までの歴代の済南相は彼らを検挙しなかった。
曹操は着任してからそれら全て検挙罷免した。これを知った大きな官に居る者も小さな官にいる者も皆怖れて震えあがり、姦宄(姦悪)は逃走して他郡に隠れた。
以前、城陽景王・劉章が漢に対して功績があったため、城陽国が祠を建てた。青州諸郡が次々にそれを真似し始め、その中でも済南が特に盛んで、祠の数が六百余に上っていた。
賈人(商人)の中には、二千石(太守・国相)の輿服・導従(従者)を借りて、倡楽(祠廟で行う舞踊音楽等の娯楽、儀式)を為す者もおり、奢侈が日に日に甚だしくなっており、逆に民は貧窮した生活の中に居た。しかしながら歴代の長吏で敢えてこれらを禁じる者はいなかった。
曹操は全ての祠屋を破壊し、官吏も民も祠を祀ることを禁止した。
済南相になった曹操は久しくして朝廷に呼び戻され、東郡太守に任命された。
当時は権臣が朝政を専断し、貴戚が恣に振る舞っていた。
曹操は道に違えて媚びることができず、しばしば彼らに逆らったため、家に禍をもたらすことを恐れ、東郡太守に任命された時、宿衛に留まることを乞うほどであった。
朝廷は曹操を議郎に任命したが、曹操は病と称して出仕せず、結局、そのまま故郷に帰った。
城外に家を築き、春夏は書伝を習読して秋冬には弋猟(狩猟)を行い、それを自らの娯楽としていた。
そんな彼ならば、王朝を憎んでいるだろうと思い、王芬らは曹操を誘ったのである。しかしながら曹操はこの誘いを拒否した。
「廃立の事とは、天下の最も不祥なことです。古人には成敗を見極めて軽重を計ってから行動した者がおり、伊尹と霍光がそれに当たります。伊尹は至忠の誠を胸に抱き、輔政の大臣の地位を根拠にし、官員の上に居たため、進退廃置において、計が実現して事が成立したのです。霍光に及んでは、託国の任を受け、宗臣の位を借り、内は執政の大権に頼り、外は群卿と同じことを欲しているという形勢があり、昌邑(廃帝・劉賀)は即位して日が浅いためまだ貴寵がなく、朝廷には讜臣(直諫の臣)が乏しく、建議が近密な臣から出ていたため、計は輪が転がるように順調に行われ、事は枯木を割るように容易に完成できたのです」
「今、諸君はただいたずらに過去の容易な様子だけを見て、当今の困難な状況をまだ見ていません。諸君は自分の力量を量るべきです。衆を結集して党を連ねたとしても、七国と比べて如何でしょうか(「七国」は戦国時代の諸王国のこと)。合肥の貴は呉・楚と比べて如何でしょうか(呉楚の七国の乱の七カ国のこと)。このようでありながら非常な事を為して必勝を望んでも、危険ではありませんか」
計画に甘さがありすぎて、話しにならないとばかりに曹操は拒否したのである。
王芬は平原の人・華歆や陶丘洪も招いて共に計を定めようとした。
陶丘洪は招きに応じようとしたが、華歆が止めた。
「廃立の大事は伊・霍でも難としたことです。王芬は性格が軽率で勇武もないため、成功するはずがありません」
陶丘洪は行くのを止めた。
この頃、夜半に北方で赤気が現れ、東西の空に連なった。
太史が上奏した。
「北方に陰謀があるので北行するべきではありません」
霊帝は北巡を中止し、王芬に命じて兵を解散させ、すぐ朝廷に招いた。
懼れた王芬は印綬を解いて逃亡し、平原に至って自殺した。




