衰弱する王朝
本日は二話更新です。
166年
桓帝が詔を発して度遼将軍・張奐を招き、大司農に任命した。代わりに使匈奴中郎将・皇甫規を再び度遼将軍にした。
皇甫規は自分が大位(高位)に居続けていると考え、退避を欲してしばしば病を患っていると上書したが、批准されなかった。
ちょうどこの頃、友人の喪(霊柩)が故郷に帰ったため、皇甫規が管轄する地域の境界を越えて迎えに行っら。その後、客に命じて并州刺史・胡芳に、
「皇甫規が勝手に軍営から遠く離れましたので、急いで挙奏(検挙・上奏)するべきです」
と密告させた。
しかし胡芳は、
「威明(皇甫規の字)は家に帰って仕官の道を避けることを欲している。だから私を激発させたのだ。私は朝廷のために才を愛さなければならない。どうして彼の計を展開することができようか」
と言って不問にした。
張奐が去ったため、それを知った鮮卑が南匈奴や烏桓と結んで共に叛した。
六月、南匈奴、烏桓、鮮卑が数道から塞内に入り、縁辺の九郡を侵略した。
七月、鮮卑が再び塞内に入り、東羌を誘って盟を結んだ。
上郡の沈氐や安定の先零諸種(諸族)が共に武威、張掖を侵すようになり、縁辺が大いに害を被った。
これに対して、桓帝が詔を発して武猛の士を挙げさせた。三公は各二人、卿・校尉は各一人を挙げた。
また、桓帝が詔を発して再び張奐を使匈奴中郎将に任命し、匈奴、烏桓、鮮卑を撃たせた。
張奐に九卿の秩を与え、幽・并・涼三州および度遼・烏桓二営(度遼将軍と護烏桓校尉の営)を監督させ、併せて刺史や二千石(太守・国相)の能力も考察させた。
桓帝がまだ蠡吾侯だった頃、甘陵の人・周福から学問を授かった。
そのため、即位してから周福を抜擢して尚書にした。
当時、同郡の河南尹・房植も朝廷において名望があった。
そこで郷人はこう謠った。
「天下の規矩(模範・法度。または品行方正で法礼を守っている人物)は房伯武。師を理由に印を獲たのは周仲進」
伯武は房植の字、仲進は周福の字である。
二家の賓客が互いに譏揣(相手の長短を量って批判すること)した。この後、それぞれが朋徒を建ててしだいに尤隙(間隙。対立)を形成するようになっていった。
甘陵は南北二部に分かれ、党人の議(党人間の議論)がここから始まったのである。
汝南太守・宗資が范滂を功曹に任命し、南陽太守・成瑨が岑晊を功曹に任命した。
どちらの太守もそれぞれの功曹に心を委ねて自由に判断させ、褒善糾違(善を褒賞して過失を正すこと)を任せて朝府(郡府)を粛清した。
范滂は特に剛勁(剛強)で、悪を讎(仇敵)のように憎んだ。
范滂の甥に当たる李頌は以前から無行(善行がないこと。素行が悪いこと)であったが、中常侍・唐衡が宗資に所属させたため、宗資は李頌を用いて官吏にしようとした。
ところが范滂は李頌を官吏にするのは相応しくないと知っていたため指示を無視して李頌を出仕させなかった。
宗資は怒りを書佐(郡で文書を担当する官)・朱零に移して殴打した。理不尽である。すると朱零は宗資を仰ぎ見てこう言った。
「范滂の清裁(清明な裁断)は利刃で腐朽した木を伐ったようなものです。今日、笞を受けて死んだとしても、范滂に違えることはできません」
宗資は打つのを止めた。
郡中の中人以下の者で范滂を怨まない者はいなかった。ここで言う中人がどの程度の身分の人なのかはよくわからない。
因みに范滂が用いた者は「范党」と呼ばれる。
功曹の范滂と岑晊がそれぞれ郡の政治を行ったため、二郡の人々はこう謠った。
「汝南太守は范孟博。南陽の人・宗資は画諾(批准)を担当するだけである。南陽太守は岑公孝。弘農の人・成瑨はただ坐って歌うだけだ」
孟博は范滂で、公孝は岑晊の字である。
太学の諸生三万余人の中で、郭泰と潁川の人・賈彪が冠(筆頭)になった。二人は李膺、陳蕃、王暢と互いに褒重(称賛・尊重)しあった。
学生の間ではこう語られた。
「天下の模楷(模範)は李元礼。強禦(強権)を畏れないのは陳仲挙。天下の俊秀は王叔茂」
元礼は李膺の字、仲挙は陳蕃の字、叔茂は王暢の字である。
この後、朝廷内外が知識人の影響を受け、競って臧否(良否の品評。名声)を追求するようになった。公卿以下、貶議(悪評)を畏れない者はなく、先を争って彼らの門を訪ねた。
宛の富賈(富商)・張汎(「張汜」または「張子禁」)という者は後宮に親族がおり、また玩好の物を雕鏤(彫刻)するのが得意で、多くを賄賂として中官(宦官)に贈っていた。そのおかげで顕位を得て、権勢を利用して縦横に振る舞うようになった。
そこで、岑晊と賊曹史(盗賊を取り締まる官吏)・張牧が南陽太守・成瑨に勧めて張汎らを逮捕させた。
すぐに大赦があったが、成瑨は張汎を誅殺し、更に宗族賓客を捕えて二百余人を殺してから朝廷に報告した。
小黄門・晋陽の人・趙津も貪暴放縦で、一県の巨患となっていた。
そこで太原太守・劉瓆が郡吏・王允を派遣して趙津を討捕(捜索逮捕)させた。趙津も大赦の後に殺された。この王允こそ、後に董卓と戦う王允である。
これらの事があったため、中常侍・侯覧が張汎の妻に冤罪を訴える上書を行わせた。宦者がこれを機に成瑨と劉瓆を讒言した。
桓帝は激怒して成瑨と劉瓆を召還し、二人を獄に下した。
有司(官員)が(宦官の)意向を受けて、
「成瑨と劉瓆の罪は棄市に値する」
と上奏した。
山陽太守・翟超が郡の人・張倹を東部督郵に任命した。
中常侍・侯覧は家が防東にあり、百姓に残暴(暴虐)を行っていた。
そんな侯覧が母を亡くして家に帰った時、大きな塋冢(墳墓)を造った。
張倹は朝廷に上奏して侯覧の罪を弾劾したが、侯覧が桓帝の傍で様子を窺って遮ったため、上奏文は桓帝に届かなかった。
そこで張倹は侯覧の墳墓と住宅を破壊し、資財(資産、財産)を没収してから状況を詳しく報告した。しかしやはり上奏文は提出されなかった。
徐璜の兄の子・徐宣は下邳令になり、ひどく暴虐であった。
以前、徐宣が元汝南太守・李暠の娘を求めたが、得られなかったため、吏卒を率いて李暠の家に至り、娘を車に載せて帰ってから、戲射(射術の遊戯)によって殺してしまった。
東海相・黄浮がこれを聞くや徐宣の家属を逮捕し、長幼に関係なく全て拷問した。
掾史以下の官員が強く止めたが、黄浮はこう言った。
「徐宣は国賊だ。今日これを殺すことができれば、明日、罪に坐して死んだとしても暝目するに足りる」
黄浮はすぐに徐宣の罪を裁いて棄市に処し、死体を曝した。
これらの事件に対して宦官が冤罪を訴えたため、桓帝が激怒した。翟超と黄浮は髠鉗(髪を剃って首枷等の刑具をつける刑)のうえ、左校で労役する刑に処された。
太尉・陳蕃と司空・劉茂が共に桓帝を諫め、成瑨、劉瓆、翟超、黄浮らの罪を赦すように請うた。
陳蕃らの諫言を受けて桓帝が不快になった。
有司(官員)が上奏して逆に陳蕃らを弾劾したため、劉茂は発言しなくなった。
「正義を果たすことには覚悟がいるものだ」
その覚悟は決して揺らがないと陳蕃は独りで上書し続けた。上書の内容は長いため省く。しかしながら桓帝は彼の上書を採用しなかった。
この後、宦官がますます陳蕃を憎むようになった。陳蕃が人材を選挙する上奏を行っても、常に中詔(宮中が直接発布する詔書)によって譴責を受けて却下するようにした。陳蕃の長史以下の多くの官員が宦官のために罪に坐して刑を受けたが、陳蕃自身は名臣だったため、宦官もまだ直接危害を加えることができなかった。
彼に次いで上書を行った者がいる。平原の人・襄楷という人である。彼は宮闕を訪ねて上書した。
この上書も長いため省くが、彼の上書で興味深い点がある。浮屠について述べられていることである。浮屠とは仏陀、つまりは仏教のことである。
桓帝は取り合わなかったが、再び上書されると桓帝は襄楷を召して入宮させ、詔を発して尚書に詳しく応答させた。
襄楷が尚書に言った。
「古は本来、宦臣がいませんでした。武帝の末(晩年)になって、武帝がしばしば後宮で遊んだため、初めて置かれるようになったのです」
補足するが春秋時代から宦官はいる。漢の歴史という中でも劉邦の頃からいる。彼が武帝の頃からと述べたのは恐らく宦官の毒による被害の大きさが武帝から大きくなったと述べたいのだと思われる。
尚書は宦官の意志を受けてこう上奏した。
「襄楷は辞理を正さず、経芸(経典)から違背(乖離)し、星宿(星座)を借りて自分の意見に符合させ、上を欺いて事実を曲げております。司隸に下して襄楷の罪法を正し、逮捕して雒陽獄に送ることを請います」
桓帝は襄楷の言が激切だったものの、全て天文恒象の数(吉凶を予測する天象の術)だったため、誅殺せず司寇(二年間の労役)の刑に処した。天譴を畏れたのである。。
明帝永平年間以来、臣民の中には浮屠の術を習う者もいたが、歴代の天子の中には好む者はいなかった。しかし桓帝に至ると始めて篤好(篤く愛すること)して頻繁に自ら祷祠(祭祀)したため、ここから浮屠の法(仏教)がしだいに盛んになった。襄楷が浮屠に言及したのはこのためである。
段々と仏教がこの時代に入り込んでいたのである。
符節令・蔡衍と議郎・劉瑜が成瑨と劉瓆を救うために上書を行ったが、その言葉が切厲(激烈)だったため、罪に坐して免官された。
成瑨と劉瓆は獄中で死んだ。
二人は元から剛直で、経術に通じており、当時において名が知られていたため、天下が二人を惜しんだ。
因みにこの時、劉瓆の遺体を王允が引き取り、埋葬して三年間の喪に服した。
岑晊と張牧は逃亡して禍から逃れることができた。
岑晊が逃亡した時、親友が競って岑晊を匿ったが、賈彪だけは門を閉ざして受け入れなかった。そのため人々は賈彪を怨んだ。
賈彪はこう言った。
「『春秋左氏伝』では『時を観察して行動し、後人を巻き込まないものだ』と言っている。公孝(岑晊の字)は君(長官。南陽太守・成瑨)に強要して釁(罪)をもたらし、自らその咎(害)を残したのだ。私は彼に対して戈を奮えないことを恨んでいるのに、逆に彼を許容して隠すことができようか」
彼の言い分は岑晊は自らの行動で上司を危険に晒し、処刑に至るまで助けないが逃亡し、皆に迷惑をかけている男ではないかということである。
人々は賈彪の裁正(公正な判断、処置)に感服した。
ここで賈彪の逸話について述べる。
彼はかつて新息長になった。
当時、小民(庶民)は貧困なため、多くの者が子を養えなかった。
その現状を憂いた賈彪は厳しく制度を定め、自分の子を殺す罪を殺人と同罪にした。
ある時、城南に盗賊がおり、人から物を奪って殺害した。また、城北には自分の子を殺した婦人がいた。
賈彪が自ら官府を出て按験(調査)に行った。掾吏は賈彪の車を牽いて南に向かおうとした。
すると賈彪が激怒した。
「賊寇が人を害すのは常理である。しかし母子が互いに害しあうのは、天に逆らって道に違えることである」
賈彪は車を駆けさせて北に行き、母の罪を調べて判決を下した。
これを聞いた城南の賊は面縛(手を後ろに縛ること)して自首した。
数年後、子を養う者が千人を数えるようになり、人々は、
「これは賈父が生んだ子である」
と言って名を「賈」にした。
賈彪はこの時代においては情よりも理を重視した思考の持ち主であると言える。
仮面の男が呟く。
「かつてこの王朝を作った男は絶大なる努力によってその偉業を果たした」
彼は夜空を眺める。
「しかしながら男の子孫の中でその努力を超える努力を果たした者はいなかった」
そして、今、努力とは無縁の男が玉座の上にいる。
「努力しても何らの意味をもたらされないと思っているのだろう」
玉座の上にいる者はそれだけでも不幸であると言えなくはないのかもしれない。
「悲しいことだ。始祖の努力に子孫が優らぬが故にこの王朝は終わろうとしている」
王朝の性質は始祖であり、開祖の本質が多大なる影響を与えるのかもしれない。
「漢の高祖は不真面目な男であった。漢の世祖は真面目な男であった。しかしながら二人の作り上げた王朝は後者の方がこれほどに惨めなほどにやせ細っていくのはなぜだろうか」
そして、今、王朝は地獄をもたらそうとしている。
「数多の綺羅星と共に駆け抜けたお前の王朝はその綺羅星の輝きを奪い、踏みにじろうとしている。お前はどう思う……文叔……」
仮面の男の目には涙が流れた。




