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Another Sky  作者: 須藤鵜鷺
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プロローグ

 コンクリートの冷たい壁の中にも、朝の日差しは届いた。それは上部に空けられた明かり取りの窓から差し込んでくる。温かいはずのその陽光は、同じコンクリートでできた床を照らしても外の温もりを届けてはくれない。

 ガチャン、と大きな音を響かせて分厚い鋼鉄のドアが開く。その向こう側から一人の男が現れた。白衣を着た二十代前半といった風貌の男は、髪を染めた様子もなく、至って真面目そうに見える。黒縁で角型の眼鏡が、彫りの浅い中性的な顔立ちを引き締めている。左手にアルミケースを携えて、男は部屋の片隅にいるものに目をやる。それは一見、白い服を着た子供が壁を向いてうずくまっているように見える。先程のドアの音でその存在にはとっくに気づいているはずのそれは、なおも両腕でひざを抱えたまま動こうとしない。

「透亜〈トウア〉、朝だよ」

 男はそのうずくまっているものに声をかける。優しく、人の心を解かすような柔らかい声。その声につられて、うずくまっていたものは顔を上げる。ボブを少し短くしたような長さの黒髪の下から、あどけない少女の顔が姿を見せる。

「おはよう」

 男は目を細めて言う。真っ白の病院着のような、ワンピース状の服を着たそれも呼応する。

「それじゃ、始めようか。横になって」

 微笑を携えながらも、男は目の奥では笑っていないように見える。少女の顔をしたそれは言われた通り、白い台の上に横になる。男は近くの机に平たいアルミのバットを置くと、その上に持っていたケースから出したたくさんの金属製の道具を並べる。それはメスなどの手術道具だ。

 手術用の薄い手袋をはめると、男は手際よく横たわったそれに麻酔を打つ。男はそれの顔を横に向けさせると、首筋の頭に近い部分を切開する。と言っても、皮膚の浅いところを切り開いただけなので出血はあまりない。男はその細い皮膚の切れ目から、ピンセットのようなものとハサミのようなものを左右の手で巧みに操り、血に染まった一センチ四方くらいの薄い物体を取り出す。それをバットの端に放ると、カランというはかなげな音がした。そしてあっという間に縫合を終わらせる。

「終わったよ、透亜」

 透亜と呼ばれた少女の姿をしたそれはゆっくりと顔を男に向ける。今しがた縫合したはずの傷はメスを入れたとは思えないほど目立たない。そのかすかな跡もさらりと流れる髪の下へ隠れた。それは体を起こし、目をこすりながら麻酔による眠気を覚ます。その間に男はつい先程その体から取り出したものを濡らしたコットンで拭いてきれいに血を落とす。それはICチップだった。鈍い金色に輝くその物体を、男は部屋に置いてあった白いクッションに縫い付ける。傷の縫合で使ったのと同じ糸で器用に縫いつけられたチップは、まるでひとりでに貼り付いているように見える。男はそれを、チップを縫い付けた面を裏にして台の上に置く。その様子を、台に腰掛けるようにして座っている少女の姿をしたそれは無表情で見つめている。男はその顔をのぞくと、その目の前に自分の手を差し出す。

「さあ、行こう」

―本当に行くの?

 それは声というにはあまりにもかすかな、息が漏れるような声だった。声を発したのは少女のようなそれだった。男は優しげな表情で、しかしきっぱりと言う。

「それは透亜が決めたことだろう」

 少女のような顔が下を向く。男はその間にもケースの内ポケットから小さく折りたたまれた黒い布を取り出す。広げるとそれはちょうど少女のようなそれがすっぽり覆われるほどの、フード付きのマントだ。男はそれにフードを頭からかぶせ、部屋の重いドアを開ける。やはりガチャン、という耳障りな音がする。フードを目深にかぶったそれはその後について部屋を出る。

 そこは暗く湿った廊下だった。部屋の側はコンクリートの壁になっているが、反対側はごつごつとした岩がむき出しになっている。窓がない廊下はぽつりぽつりと付いたライト以外に明かりはなく、そのすべてを照らしてはいない。岩の壁は湿っていて、床にも水溜りがいくつもある。男とフードをかぶったそれは廊下を静かに、しかし急ぎ足で進む。

―大丈夫かな。

 声にならない声でそれは呟く。一歩先を行く男は歩を緩めないまま、顔だけで振り返る。

「自由になるのが怖くなった?」

 男に問われると、それは目をそらす。フードに隠れて表情は見えない。

「透亜の願いが叶うんだよ。何も怖がらなくていいんだ」

 もう男はそれのほうを見てはいなかった。相変わらずの優しい声。しかしそこには、気のせいのようなかすかな憂いが感じられる。

 男とそれは廊下の突き当たりまで来た。そこには一つのドアがある。頭上に「非常口」の緑色のライトが光っている。男はそのドアを静かに開けた。その奥には、さらに暗いトンネルが続いている。岩壁を削っただけの、細いトンネル。男はフードをかぶったそれの手を引いてトンネルの中へ踏み出す。

 次の瞬間、辺りにけたたましいサイレンの音が響いた。男はぎょっとしたが、とっさにそれの手を引いたままトンネルの奥へと走り出した。

『緊急連絡。BF北第一非常口に異常あり。警備員は至急現場へ直行してください。緊急連絡。BF……』

 女性の声を模した機械音声がだんだん遠ざかっていく。男は軽く舌打ちをして、さらに先へと走っていく。誰かが追ってくるような気配はまだない。そのままのスピードで細いトンネルをひた走りに走る。こんな速さで走ったことのない少女姿のそれは息を切らしている。その荒い息の音を聞いて、男は顔を苦渋にゆがませる。

「透亜、これから君がすべきことを言っておく。一回しか言わないからよく聞いて」

 そのままの速さで走りながら男は言う。

「このまま走っていくと、もうすぐトンネルを抜けて、いつもの広場に出る。まっすぐ進むとその先は崖だ。下は海。透亜はそのまま走りぬくんだ。振り返らないで」

 それから返事はない。

「いいかい。自分を信じて飛ぶんだよ」

 反応がないのを心配して、男がそれの顔を振り返る。ドタドタと、トンネルの奥から足音が聞こえてきた。

―私にできるかな。

 声にならない声は硬く、緊張が伝わってくる。

「大丈夫。透亜なら。自信を持って」

 男は頬を緩めて笑顔を作る。フードのそれも応えるように男の手を強く握る。奥から聞こえる足音は、だんだん大きくなってくる。

 トンネルの出口だ。まぶしすぎる光に迎えられて、二人は勢いよく外へ出る。崖まで数十メートルの距離を、二人は臆することなくさらに加速する。そして男は崖のほんの一歩手前で急停止し、それの腕を思い切り引くようにして、まるで巨大な紙飛行機でも飛ばすかのように、虚空へと放った。

 放り出されたそれからは、かぶっていたフードが剥がれ落ちた。落下しながらもその勢いで滑空していく。次の瞬間、それは海へ落ちる前にバサッ……と音を立てて白く大きなものを左右に広げた。それは翼だった。白いワンピースのような服を着たそれの背中には、確かに純白の翼が広がっている。抜けるような青い空と深い色の海の間を切り裂くように、それは日の光を浴びて白く輝く。それはそのまましばらく低空飛行し、やがて少しずつ高度を上げて飛び去っていく。それを見届けて、男はトンネルのほうを振り返った。もはや笑みはない。そこには黒い防護服で身を固めた六人の男たちが、彼を取り囲むように対峙していた。

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