おまけ 仕立屋とその妻
グラナダの町を囲む高い城壁は初夏を迎え勢力を増した蔦で緑色の壁になっていた。
二つ前の季節にここグラナダに移住した夫婦は小さいながらも店舗を構え、やっと仕事も軌道に乗りつつある頃だった。
まず夫は知り合いのツテを頼りに、自警団たちの制服を作った。
夫の作る制服は機能も耐久性もよく、それまでてんでばらばらの服を着ていた自警団の団員達の統率にも一役買い、町の仕立て屋としての第一歩を成功させた。
「ただいま。」
夫が勝手口の戸を開けて帰ってきた。玄関から帰ってくればいいのに「こっちの方が近い」と言っていつもこちらから帰ってくることに苦笑しながらも妻―レーチェは軽い昼食の準備をしながら彼を迎え入れた。
「…おかえりなさい。」
まだ、こういったやり取りが少し照れくさくてぎこちなくなってしまう。
彼はそんな様子を目ざとく見つけ、わざとレーチェに近づいてこめかみに軽く唇を押し付けた。
「…お仕事、あんまりはかどらないですね?」
作業の早い夫―レイニーには珍しく、服を作るペースが遅い。
「まーね。あんだけ毎日服破かれて、それを毎日直しに行ってたんじゃぁ本末転倒だよ。」
「団服のほかに練習の時の制服があればいいんじゃありませんか?」
昔女中をしていたときは、掃除や朝食の支度をする午前中は頑丈な生地の服を着ていた。
午後は給仕で人前に出るときのために柔らかくて縫製のいい服を着る習慣があった。とはいってもレーチェは事情があって人前で給仕したことはなく、服は朝から晩まで着通しだったのだが。
そう言ってふとレイニーを見るとぽかんと口を開けてこちらを見ていたので何か悪いことでも言ってしまったかと思い戸惑っているといきなり抱き寄せられて熱烈に口付けられた。
「な…!にするんですか!」
驚いて思いっきり突き飛ばすと夫は「おや残念」といった顔でおどけて手を離した。
「いや~、うちの奥さんは商売の才能があるなぁと思ってね。」
「…!だからって、こんな所で…」
その昔、仕立屋と女中の立場だった時には彼女がこんなに真っ赤になって怒るところは見たことがなかった。いつも感情を灯さない新緑の瞳が静かな空間に浮かんでいるだけだった。
「よし!では、善は急げで早速団長に交渉してこよっかな。」
「…いつ頃帰ってきます…?」
「ん?」
レイニーが振り向くとコンロにかけられたスープはほどよく湯気が立ち込めて、黒麦のパンは切り分けられて籠の中に入っていた。後はハムを少し焼くだけ。
そしてレイニーの振り向いた正面には少しだけ眉根を下げた妻の顔。口には出さないけど、なんだか耳を下げて震える子犬の姿に重なる。
しまった…。声に出さずにレイニーはつぶやいた。ほうっておくと自分が帰ってくるまでこの人は何も食べないだろう。
そんなことよりも…。
「…いや、交渉はやっぱり明日にしよう。」
レイニーはきっぱりと拳を握って決意した。
「?」
「今日はもう自宅で作業の日にします。」
「そうですか…?」
急に意見が変わった夫に少し戸惑ったけど、せっかく用意した昼食を温かい内に食べてもらえるならまあいいか。とレーチェは少し顔をほころばせた。そんな妻の喜んだ顔を見てレイニーも微笑んだ。
「ユラに頼まれた白衣も縫わないといけないし、まずはそっちをやっつけないとね。」
「じゃあ食事が終わったら布の用意をしますね。」
店が変わっても帳簿の管理や布などの発注はレーチェの仕事だった。
昼食は簡単にキッチンで済ませる。木のテーブルに皿が並べられた。
「あーあ、団服に、白衣かぁ…。最近ドレス作ってないな。」
愚痴を口にしながらも傍らにはすでに何着もの白衣が積もっている。作業の速さは相変わらず早い。
「そうですね。ユラの知り合いに宣伝してからいくつか買っていただきましたけど…」
「それって既製品じゃん。たまにはこう…ガッと達成感のあるドレス…作りたいなぁ!」
そういわれてもここはグラナダで、蝶の国のようにドレスを着る機会なんてなかなか訪れない。
「そういったわけで、レーチェ。俺に協力して。」
気付くとレーチェの体は作業部屋兼応接室のソファに座らされていた。あえて詳しく言うと彼女の体を膝でまたぐようにレイニーが覆いかぶさっている。
「協力…ってなにがですか?」
「いや、だから、ドレスの。」
窓の外は初夏の爽やかな日差し。カーテンも窓も開いている。
「ドレスと、この状態に何の関係があるんです。」
「や、だから。ちゃんと採寸しないとさ。」
「そんなの、知ってるでしょう?」
レイニーの『採寸』は特徴的で、特に女性の服を作る時はこの採寸方法が一番女性を美しく見せられると昔評判だった。レーチェは必死で抵抗する。
「いや、もしかしたらこのあたりとか、サイズが変わってるかも…とか思ってさー」
「…いい加減にしてください!怒りますよ!」
抵抗していることにまったく構わずくすくす笑う声が耳元に響く。
「…貴方って人は!ドレスが作りたいの、それとも『採寸』がしたいの…?」
「…どっちも、だけど。今は…もちろん採寸かなぁ。」
しれっとした顔して。レーチェは衝動的に彼の鼻をおもいきり摘んでやった。そうしても私はこの人に敵わない、どうしたって彼に思いどうりに生きて欲しいと思ってしまうのだ。
彼の肩に頭を置く。ミルクティ色の髪が赤くなった耳を隠してくれる。
「…しても、いいけど。…此処じゃ嫌。」
小さな声で一つだけ抵抗すると彼はやっぱりくすくす笑ってレーチェの体を抱えて寝室に運んだ。
甘ーい(笑)




