或る科学者の独白
加賀宏樹という男は、本当に奇妙な奴だった。
たとえば本を読むとき、もちろんそれは薬学関連の図書だけれど、奴はなにをそこまで思いつめることがあるのかというほどに顔をしかめる。そこまで嫌なら他の本を読むか、もしくは読書自体をやめてしまえばいいというのに、奴はひたすら不機嫌そうに文字列と化学式、数式の羅列を目で追っているのだ。切り上げるきっかけを与えてやろうと邪魔をしてやれば、親なら子供の耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言がタイムラグなしで飛んでくるのだからたまったものじゃない。
前言撤回、奴が不機嫌なのはいつものことだった。
自動扉が開くのが遅いことに舌打ちをする。建てつけの悪い扉にクソがと呟く。この研究施設はまだ築十年も経っていない新しい建物だというのに、その設備をしてなお奴には不十分であるらしかった。いっそのことワープ装置でも作ってやればいいんじゃないか。むしろ奴なら作れるんじゃないか。面倒だからやらないだけで。
「加賀くん、ワープ装置とか作れないわけ?」
「一度ネズミと頭を取り換えてきたらどうだ」
問いかけてみればこのありさまだ。確かに今回は俺の言い方が悪かったのかもしれないけれど、それをおいても奴の言葉の選択はことごとく棘のあるものでしかない。そのうえ人を嘲って笑っているのかといえばそうではないらしく、奴はただ単に空気中の酸素を吸って毒を吐き出しているだけなのだった。単に? ――単に。
さて、俺がこの職場、つまりは国立薬学兵器研究所に勤める五年前から、奴はここにいて薬剤を扱っていたらしい。その目つきの悪さと口の悪さといったら評判だった。しかも頭は半端なく切れるものだから誰も無碍にはできない。先輩方にとっての手に余る新人は数年後、俺にとっての先輩になった。
そんな加賀宏樹が、まさか、よりにもよって、小さな女の子を被験者として扱うことになるなんて、誰も思わなかっただろう。本人も上司に詰め寄ったというのだからただ事じゃない。研究所はもちろん騒然とした。それから数日間、加賀の周りの気温は五度ほど下がっていただろう。
「……あの子はどう? ほら被験体の」
担当する被験者が逃亡騒ぎでいなくなり、俺が完全に暇を持て余していたころ。ほんの興味から、俺は苛々を募らせた奴に話しかけていた。最近目にした電車の脱線事故を枕にしながら、なるべくにこやかに。例の女の子が聞いているとは思わなかったけれど罪悪感はなかった。それを抱くとしたら、むしろ神経が千切れそうになっていた加賀に対してだっただろう。
実際のところ、それは俺の持つはずだった案件が、そのままそっくり加賀に流れた形だったのだ。だからこそ俺も驚いていた。驚いたふりをしていた。
けれど内心、あの加賀宏樹のことだから――その原因もいつかはばれるのだろうなと思っていた。
そして二ヶ月、いや、一ヵ月半。
奴は俺の期待、いや想像通り、肩を怒らせ、憤怒を目の中にたぎらせながら、給湯室で安物のインスタントコーヒーをすすっていた俺のもとへと歩いてきたのだった。
「おい」
「どうしたの加賀くん。おでこのシワ凄いよ。痛くないの? カルシウム足りてる?」
「戯言はいい」
一刀両断だった。かの剣豪ムサシもコジロウもびっくりするほどにぶった斬った。
俺の軽口は加賀の毒舌と同じように持って生まれてしまったものなのだから、少しは容赦してほしいものなのだけれど、羨ましいことに奴は、他人に対する許容というものを抱えて生きているわけではないのだった。
加賀は片手に掴んでいた二枚の資料のうち、一枚を引き抜いて机に叩きつける。
「こっちが、お前が俺に引き継いだ調査書」
一瞥してうなずく。サインは加賀のものだが、作成したのは俺に違いない。そこに書かれているのは長良愛里の名前に始まる、彼女の身分や来歴を示す調査内容だった。被験者となる人間が選定され次第、担当の科学者はこれを作成して保管しておく必要がある。
加賀はもう一枚の資料をその横に並べ、吐き捨てるように言った。
「――そしてこれが、二か月前に同じ人物に対してお前が作った報告書だ。違いがわかるか」
思ったより早かったなと思いながら、俺はコーヒーの入ったカップを机に置いた。
「担当者の名前かな?」
「は、そうだろうな。なるほどお前の目が節穴だということもよくわかる」
加賀は荒々しく机を殴りつけ、俺をにらみつける。
「被験者の名前、経歴。全てあべこべだ。お前の調査書を頭から信じた自分に虫唾が走るな」
低い声だった。コーヒーの水面に立った波紋を横目で眺めながら、俺は大きく息をつく。
「あべこべなんかじゃないさ。渡した調査書も、その報告書も正しいよ。間違っているのは調査書でも、俺でも、もちろん加賀くんでもない。――あの子だ。本来ここにいるはずのない、あの女の子だよ」
簡潔に言うなら、ちょろまかした、のだった。
管理なんてものは意外と杜撰なもので、一人が欠けて小さな穴ができようとも、すぐに代わりの誰かをあてがえば気付かれないように出来ているのだから。
俺が担当した一人目の女の子、小酒井真由は、実験当日にはすでにまともな神経状態ではなかった。施設に来ることも、その意味も承諾しておきながら、口を開けば家に帰りたいと人形のように連呼するありさまだ。食事もろくに摂っていないようで、その状況で行った実験は、ものの見事に失敗に終わった。
まずいなと思ったのはそのあとだった。
死後の彼女の体内から、少量の薬物が検出されたのだ。それは睡眠薬の類で、寝つきの悪い彼女に俺が渡していたものだった。その成分が実験で用いたカプセル剤と相性の悪いものであるということは、考えるまでもなく理解した。
一考。
ああそうだ、入れ替えればいい。
思い立ったが吉日、死体の処理もそこそこに町へと繰り出した。誰かいい代わり身はいないかと町内を歩きまわっていたところに、脱線事故が起こったことを知る。めちゃくちゃになった街路を救急車が錯綜しているのを見た。そしてその中で、死にたい、お願い、死なせて、と泣き叫ぶ生存者の姿も。彼女が搬送された病院にあたりをつけて、俺は彼女に会いに行った。
運よく軽傷だけで済んだらしい彼女は、どうやら家族を失くしたらしかった。その形相はすさまじく、看護師たちが抑えつけなければ病室を飛び出してしまいそうなありさまで、悲痛な叫び声はいつまでも広い廊下に反響していた。
俺はその病室に入りこむと、看護師たちを下がらせる。国家の後ろ盾というものはこういうときに便利なカードなのだった。
「きみの願いを叶えてあげる」
だから願ってごらん。
甘言を吐くのは得意だった。
彼女が望んだのは死で、それはもちろん俺の望む彼女のあり方と同じであったから、契約書に彼女の指紋が捺されるまでに大して時間は要らなかった。書類を適当にでっちあげ、あとは提出用のものとすり替えておく。これで誰にも気付かれないだろうと思った。
問題は三つ。
彼女の寄る辺となる親類はまだ残されていること、再会した彼女が完全に記憶を失っていたこと、そしてその担当が加賀に回ってしまったことだった。
「広瀬さんは、どうして科学者になったんですか」
面白いことを言う子だなあと思ったのが、彼女の担当に回された初日の感想だった。
俺をフリーにしておくよりも、加賀を彼女の担当から外して研究に回らせる方が効率はいいだろう。そんな適材適所思考を発揮した上司の判断だった。久しぶりに顔を合わせた彼女はどことなく浮かない表情をしていたけれど、初めて会ったときの狂乱ぶりからしてみると信じられないほどに落ち着いていた。
記憶喪失というのは心理的な原因から起こるもので、過去の記憶に耐えきれなかった精神が自動的に張る壁のようなものだ。彼女はそうして自分を守っていたにすぎなかった。
そして、踏切はその壁を壊す槌になった。
案の定歩道に崩れ落ちた彼女を眺めながら、ああこんなものかと思っていた。結局のところ、あの施設に来るような人間は、どこかに自分を置き去りにしてきたくせに、それが戻ってくるのを必死で拒んでいる奴らばかりだ。弱くて、脆い。
俺は携帯端末から加賀の番号を見つけ出す。仕事用にと無理やりに聞き出しておいてよかった。
「……もしもし、加賀くん? 例の子、愛里ちゃん。倒れちゃったから迎えに来てくれない?」
そろそろお役ごめんだな、と思いながら、俺はやってきた加賀にその子の世話を投げ渡したのだった。
奴がふたたび俺の前に姿を現したのはその翌日だ。
俺が提携の研究所から帰ってきたときを見はからっていたのだろう。いつかの二枚の調査書を俺に叩きつけ、出し抜けに「そのコートを寄こせ」と言ったときの加賀は、今まで見たことがないほどに凶悪な顔つきをしていた。
「なに、加賀くん、追い剥ぎ? やめてよこの寒いのに」
「いいから寄越せ。代わりにお前の失態をなかったことにしてやる」
「……はあ?」
奴はそろそろストレスで頭が限界に達しているんじゃないか、と思った。しかし加賀の頭はそれほどヤワなつくりをしていない。そもそも奴の常識がぶっとんでいるのは元々のことなのだった。
「俺が、お前の失態を、帳消しにしてやる。コートを寄こせ」
俺の失態とコートになんの関係が。
思ったけれど、放っておけば人ひとり殺しそうな勢いの加賀の剣幕にかなう人間なんてどこにもいない。渋々着ていたトレンチコートを渡すと、奴は鼻を鳴らして廊下を歩いていった。
俺の失態は、その後、奴の言う通り見事に帳消しにされることになる。
それきり研究所で奴の姿を見ることはなくなったのは、その代償というにはあまりにも軽いものだった。
*
「いやあ探したよ、加賀くん」
声をかけるなり射殺すほどの目つきをされた。
どうやらこの六年間で、奴は愛想というものを身につけて来なかったらしかった。三十と数年ものあいだ目を向けもしなかったものなのだから、それもある意味当然といえば当然だ。顔つきも体つきもほとんど変わっていないので、俺は自分がタイムスリップでもしたのかと疑ってしまったぐらいだった。
「……まだ生きていたのか」
「その言い草はひどいんじゃない? 俺がせっかく、あれやこれやの感謝の気持ちを伝えようとさあ」
「要らない帰れ。今すぐ帰れ。もう二度と来るな」
もちろん毒舌のほうもまったく変わらない。
そこは研究施設からいくつか町を越えたところにある大学付属病院の廊下だった。加賀の出身校がここだったといつか耳にしたことがあるのを思い出して、ほんの好奇心から調べてみたところ、奴は加賀宏樹という名前そのままに大学の医学部に在籍していたのだった。奴だけの頭があれば入試も容易だったことだろう。なにしろ一度薬学部を卒業している身だ。
「まあ、ちょっと話をさせてよ。それともここで気が狂ったふりをして泣き叫んで、加賀くんの名前を連呼しようか?」
これは割と本気だった。加賀もそれを心得ているのか、眉間のしわをこれでもかとばかりに深くする。それから俺に向かって盛大な舌打ちをかますと、「来い」と同じフロアの給湯室に案内してくれたのだった。
俺は無料の給茶器から二人分の茶を用意して、自分と加賀の向かう机の上に置く。
「びっくりしたよ、あれから。失態を帳消しにするって言ったきり加賀くんはいなくなるしさあ」
茶をすすりながら言うと、「知るか」とそっけない物言いが返ってきた。言葉を返すだけ丸くなったものだと考えていいだろう。
あれから、加賀は一度だけ研究施設に帰ってきたらしい。被験者のつけていたはずの発信機が追跡不可能になったのは奴のせいだという噂は真実のようだった。逃亡した被験者を捉える事ができなかったのは管理者の責任である、として、瞬く間に奴は研究所から追い出された。
奴ほどの男が一介の少女に過ぎない被験者に逃げられる。思ってもみなかった大事件に研究所は騒然としたけれど、そのときには加賀はそこにはいなかった。
彼らには分からないだろう。俺だって理解はできない。
加賀は逃げられたのではなく、彼女を逃がしたのだ――なんて。
「加賀くんはさあ、それで救ったつもりになってるわけ」
目だけが俺に向けられる。
「たったひとりを研究所から逃がして、その代わりに自分が研究員をやめて? ……そんなことあるわけないでしょう」
「……なにが言いたい?」
「代わりはいくらでも補充される、ってことさ。あの子の代わりにもっと幼い子供が来ることになるかもしれない。それに加賀くんの抜けた穴を埋めるために新しい人員が入っても、それが無能なら研究が長引くだけじゃない?」
事実、奴の代わりに研究所にやってきた新人は態度がいいだけの木偶の坊だった。先輩方は非常に喜んで歓迎していたけれど、誰もがその中身に物足りなさを感じていたことは拭えない。あそこはずっと昔から加賀を軸に動いていた場所だ。奴がいなくなったせいで目標の達成はまた遠くなった。
小を取って大を殺したお前がヒロイズムを語るなら、それは偽善でしかないよ。そう言ってやるつもりだった。だけど、加賀は興味もなさそうに鼻を鳴らすだけだった。
「生憎だが、俺はあのガキに入れこんだつもりはさらさらない。ましてや救おうとしたつもりもな」
「じゃあどうして?」
「知りたかった、それだけだ」
なにをだよ、とは思ったけれど言わなかった。教えられたところで分かる気がしない。「……ふうん」とうなずいた。
「まあいいや。めでたく俺の疑いは晴れたわけだし、文句はないよ。……ああ、そういえば加賀くん」
話は終わったとばかりに立ち上がりかけたところを呼び止める。
用意した茶は手もつけられずに奴の前に置かれたままだ。誰も毒なんか入れやしないよとさりげなく押し出しながら、言った。
「愛里ちゃん、髪伸びたね?」
加賀の眉間にまたしわが寄る。そうやって剥き出しにされる嫌悪をびしばしと感じるのは久しぶりのことで、俺は恐れを通り越してもはや感慨しか感じないのだった。
「俺のコートだよ? 盗まれないように発信機の一つや二つ仕込んでおいてしかるべきじゃない。あれ高かったんだから」
ほい、と手の上で放って見せたのは受信機だ。この大学病院から少し離れた位置にある一点を、点滅する光が今も健気に指し示している。こうして安易に持ち運んでいるのは、もちろん電波を他の端末でも受信できるように設定してあるからだ。加賀を相手に奪い取られるようなことはないだろうけど、念のため。
コートはあの後一度も使われなかったらしく、六年もの間、その光点は一ミリも移動しなかった。行方が気になって尋ねてみれば、あの子が身を寄せたのは彼女の叔母夫婦の家であるらしかった。行方不明だった彼女の発見者を装って、加賀が引き渡したといったところだろう。柄にもないことをするものだと当時は思った。
俺は受信機を机の上に置いて、にこりと笑ってみせる。
「安心してよ、誰にも言ってないからさ。どうこうしようって気もないよ」
奴は大きなため息とともに渋々椅子についた。余所を向きながら苛立たしそうに机を指で叩いて、しばらく。それからぽつりと言った。
「来年結婚するんだそうだ」
「……は、結婚? 誰が」
「あのガキだ」
「え」
声を上げてしまう。ややあって、へえ、と声が漏れた。勝手に口に浮かんだのはほほ笑みだったろう。
「……驚いたな。相手は?」
「知らん」
「知らん、て加賀くん」
「物好きであることは確かだがな。色気も糞もないガキを相手に」
ぶつくさと漏らすさまが笑いを誘った。奴の目の前で吹きだせばまた怒りを煽ることが目に見えているので、肩をすくめるにとどめる。俺だってなにも好き好んで奴を苛立たせたいわけじゃない。お前も物好きの一人だろうに、という呟きも腹の中にしまっておいた。
そろそろ潮時だ。俺は椅子を立ってひとつ伸びをする。
「さあて、と。めでたい話も聞けたことだし、帰ろうかな」
加賀はもうなにも言わなかった。下手に口を出せば俺が図に乗る、などと失礼なことを考えているのだろう。もちろんその通りなので、少しばかり残念ではある。
なにも変わらない。ふたりが抜けた穴は簡単に埋められる。俺が六年前、そうして一つの穴を塞いだように。人に代わりがいなくとも、モノに代わりはある。そして世界が必要としているのは、モノとしての人間でしかないのだから。
それが理解できないほど馬鹿でもないだろうに。加賀宏樹という男は、本当に奇妙な奴なのだった。
「じゃ、加賀くん。またね」
「もう来るな」
冷たいなあと笑って、俺は空になった紙コップをごみ箱に放った。