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幽霊は夢を見た

 りいんごおん、と重く重く響く鐘の音を聞きながら、私は式場に集った人びとを眺めていた。

 出席者は彼のご親戚と、数少ない私の親戚、それから大勢の大学の友人たちだ。色とりどりのドレスで着飾った彼女たちは目に鮮やかで、花が咲いているみたいと笑ったら「あなたが主役なんだから」と額を弾かれた。

 ウェディングドレスは、背が低くて細身の私には勿体ないほどに豪勢なものだった。これを含めた結婚式の費用には両親の貯金がそのままあてがわれていている。子供のいなかった叔母夫婦は私を自分たちのお金で育てると言って聞かず、両親の残した多額の貯金には一切手をつけようとしなかったのだ。

 自分のために使いなさいと言われても、私自身、これといった趣味は持ち合わせていなかった。昔は本を買うのにちまちまと使っていたけれど、なんだか申しわけなくなってやめてしまった。そのころには私もアルバイトを始めるようになっていて、自分の欲しいものは自分で買えるようになっていたからだ。

「うん、やっぱり愛里にはそのデザインが似合うよ。落ち着いている方が可愛い。お色直しも楽しみにしてるからね」

 そう言ってくれたのは友人のひとりだ。ドレス選びに付き合ってくれたのも彼女だった。

 ドレスショップで右往左往するばかりの私の腕をがっちりと掴みながら、店員さんとふたり、デザインと色を着実に選んでいってくれたのだ。一着取り上げたドレスが次の瞬間にはどこにあったのか忘れてしまうような私だったので、彼女の存在は大きな救いになった。その上最後に目の前に差し出された三択はどれも私の好みに合うものばかりで、おずおずと指さした一着に彼女は満足そうにほほ笑んでくれたのを覚えている。

 それが今、私の体を包んでいる。もう数十分もしたら、色味を増した鮮やかなドレスに着替えることになっていた。純白のフリルを汚さないようにとだけ気をつけながら、私は戸外の式場で椅子に座っている。

「愛里、ちょっとトイ……お手洗いに行ってくるから。誰か来たらそう言っておいて」

「うん、いってらっしゃい」

 隣で慣れないシャンパンを傾けていた彼が席を立った。白のタキシードを着たばかりの彼はいつもよりぎこちない表情を浮かべていたけれど、友人たちに褒めそやされ、はやし立てられ、それからお酒の力もあって、今やっと気が楽になったのだろう。空気を壊さないようにこっそりと館内に入っていく。

 彼とは、叔母夫婦に連れられて別の中学校に転入してからの付き合いだった。

 あのころの私は昔と変わらず引っこみ思案だったし、あんなこともあった後だったから、やはり人の輪に入っていくことはできないのだろうなと思っていた。ぼろぼろと抜けていた髪が目立たないようにベリーショートにしていたことや、薬のせいか病的なほどに白くなっていた肌のこともあって、なにか難病を抱えているのではないかと噂されたこともあった。

「最初は幽霊みたいだと思ったよ」

 最近になって、彼はそう言った。成人してすぐのビールに完全に飲まれていたのだろう、頬に赤みがさしていた。「暗いから?」と訊き返してみたらそうではないらしい。

「儚いっていうか、今にも消えそうでさあ。いつも遠くを見てるし。ご家族のことを考えているのかなって思ったけど、そうでもないみたいだったから」

 あれはなんだったんだろうなあと眠そうな声で言いながら、また一口ビールをすする。

 ああ、彼のこういう鋭い目と、それを口に出さないでいるだけの優しさが、私は好きなのだった。ずっと誰にも喋らないでいたことを話してもいいだろうか、と思ってしまうほどに。

「……私はね、もう、二回死んでいるから」

 冗談めかして言うと、彼はからからと笑った。あのときはべろんべろんに酔っていたから、彼はもうそのことも忘れてしまっているだろう。

 いつかお酒の入っていない席で伝えよう、と思っていた。きっと真剣に聞いてくれる。それが何年先のことになるかは分からないけれど。

 賓客へのあいさつ回りが終わり、写真を撮ろうと押しかける友人の波もやっと収まってきていた。そのひとりひとりが私にとってかけがえのない相手で、私がいなくなったらきっと心配してくれる人たちだった。大好きな人が増えるたび、夢を見ていた幽霊は本物の地面を踏みつけられるようになっていった。私はもう、長良愛里ではないのだ。

 見た目にも美しく作られた魚料理を口に運ぶ。ふと式場の外にやった目が、ひとりの通行人をとらえた。

「――え、」

 右手のナイフがテーブルクロスの上に落ちた。からんと音を立てて、そのまま石畳の上へと転がり落ちていく。けれど私はそれに目を向けることもできないでいた。

 視線は一点に固定されたまま動かない。用事のついでとばかりに式場の様子を無表情で眺めた彼は、最後に私のほうへ顔を向けた。

 目が合う。

 彼が、鼻を鳴らした。

 おもむろに立ちあがった私に友人の一人が気付き、「愛里ー?」と首をひねる。その声を背後に、私は駆けだした。邪魔になったハイヒールを脱ぎ捨てて裸足で芝生を踏む。ドレスの裾を両手でたくしあげ、受ける風に髪を乱して、走った。

 花嫁が姿を消した式場はたちまち混乱の渦に呑みこまれる。愛里、と私を呼ぶ声がしたけれど、ふり返っているわけにはいかなかった。

 目に映った白衣。長身と短い髪。なによりもその、世界のなにもかもに無関心でいるような表情が、灰色の記憶を呼び起こす。転がるカプセル剤、廊下に響く足音、仄暗い光に包まれた部屋で暮らした二ヶ月間――私だけが知るその夢を。

 ウェディングドレスをまとって裸足で駆ける私を、町ゆく人々が奇異の目で追う。小石で切ったのか、足の裏に微かな痛みが走った。無視して地を踏む。

「博士――!」

 阻むものは踏切の遮断機だ。乗り越えようとそれに縋りつくと、ぎょっとした通行人が私を引きはがしにかかった。その段階になって、初めて向こう側の彼がこちらへ顔を向ける。

 少しだけ、歳をとった。それは私も同じだ。あのとき抜け落ちた髪は、もう肩甲骨に届くほどに長い。丁寧にまとめあげていたそれがピンからこぼれ落ちてうなじをなぞった。吹きつける風が涙をさらう。

 博士、どうしていなくなったんですか。どうして置いて行ったんですか。何故。どうして、私を。

 居場所の手がかりもない相手を何度も探した。直接会って訊きたいことがいくつもあった。けれど姿を見た今は、ひとつとして言葉にならなかった。

 踏切から離れそうになる体を押しとどめて、私は口を開く。かんかんと鳴り響く踏切に呑みこまれないように。

 嗚咽が混じった、その声で、――礼を。

 目の前を電車が駆け抜ける。轟音が世界を切り離す。風と鉄の香りに吹かれ、私はずるずると膝から崩れ落ちた。五両編成の電車が通り過ぎたとき、その向こうにはもう誰もいなかった。

「……愛里?」

 彼の声が聞こえた。

 ほっとした通行人たちが私から離れ、日常へと戻っていく。幾つもの車が踏切を渡り、歩行者が私たちを横目に見ながら通り過ぎる。式場から逃げ出した花嫁と、それを追いかけてきた花婿は、人びとの目には大層ドラマティックに映るのだろう。

 ぼろぼろとこぼれる涙が化粧を崩した。お色直しのときにきっと怒られてしまうだろう。脱ぎ捨てたハイヒールは誰かが拾ってくれただろうか。今になってじんじんと痛む足に手をやって、私は体をひねる。彼が息を飲んだ。

「夢を見ていたの」

 どこまでが夢で、どこからが現実だったのかはもう分からない。あの二ヶ月さえ本当はただの白昼夢に過ぎなかったのかもしれない。けれども、どの夢も、すべて踏切が切り取ってしまった。

 私は痛めた足で立ちあがった。ふらついた体を支えられる。純白のドレスがはらりと舞った。

 ――大切なひとでした。

 けれど恋はしていませんでした。

 彼は私を、生かしてくれた人でした。

 震える唇で彼の名前を呼ぶ。なに、と答える声は優しかった。

「あなたと一緒に、生きたい」

 救われた命を、繋いで、生きた。いつまでも続く生を望み、終わりを与える死を恐れて。地面を踏んだ幽霊には体が与えられたから、もう夢見ることは許されない。

 光が散った。まどろみの虚ろから、私はようやく目を醒ます。

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