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空白の帰り路

 あれから二度の投薬実験が行われた。博士に頼んで部屋の壁に貼ってもらったカレンダーから窺うに、最初の実験からはもう二週間が経過しているようだった。一月十二日、今朝もその数字を丸で囲んだばかりだ。私の日課と呼べるものはこの作業と、そしてこれも博士に運んでもらった本を何度もくり返し読むことぐらいだった。

 あのとき、博士と青年の会話を盗み聞きしたあと、私は耐えきれずにその場から逃げ出してしまっていた。しかし私を追う足音も、その後の追及もないまま、日々は無為に過ぎていった。当の博士は私の挙動を気にするそぶりも見せない。彼にとってその会話は、聞かれようが聞かれまいが変わりのないことだったのだろう。

 けれどそんな博士は今、露骨に顔をしかめていた。

 普段からそれに近い表情をしてはいるものの、ここまで険悪な顔をしているのも珍しいことだ。

「……おい」

 地を這うような声。その怒りの理由が、ほとんど手のつけられていない私の朝食にあることは明らかだった。パンは二度ちぎったところで残され、サラダに至っては出されたままの状態でそこにある。

「お腹がすかないんです。食欲もなくて」

 もう数日ほど同じ状態が続いている。その度に博士は苛立ちを露わにしていた。

 食事が勿体ないなどということを言う人ではない。私の体、より正確に言うなら被験者の健康状態を気にしているのだろう。

「薬はただでさえ体に負担をかける。食わんと死ぬぞ」

 これにも脚色はないのだろう。そうは言っても、口に入らないものは入らない。スープひと匙ですら、飲みこもうとすれば強烈な嫌悪感を催す。嘔吐するようなことはこれまでなかったが、その嫌悪感を無理に乗り越えてまで食事を摂ろうとは思えないのだ。

 私が無言でうつむいていると、それ以上は無駄と判断したのか、博士は私の朝食のトレイを乱暴に取り上げて部屋を出ていった。

 扉の音の余韻が残る部屋で、私は体をベッドに横たえる。

 食事がのどを通らないのには精神的な理由があるのだ、と思った。博士が再三再四食事を促すからには実験のせいではないのだろう。一日三度、食物を咀嚼し、嚥下するだけというその行為は、もう私にとって“行為”以上の何物でもなくなっていた。

 続くのは、食事をして、本を読んで、あとはこんこんと眠るだけの毎日だ。

 手を伸ばしたところにあるファイルの中身も、規約に関する部分はあらかた読み終えてしまっている。けれど博士と青年が話していたようなことはどこにも書かれていなかった。

 そうしてぽつねんと寝転がっていると次第にまぶたが重くなる。薬の副作用か、それとも消耗した体を修復しようとする機能が働いているのか、最近はすぐ体に限界が来るようになっていた。半日近く眠っていることも珍しくはない。そうしていつの間にか眠りに落ちていた。

 また白い夢を見る。くり返し現れる誰かの手に対し、私の腕が掲げられることはない。

 変わらない。なにも。


   *


 意識が戻って気付いた。体が重い。目を覚ましても上半身を起こす気になれず、私は熱のこもった息を吐きだした。こころなしか両腕に鈍痛があって、頭がうまく働いてくれない。

 朦朧とした視界を探れば、いつものパイプ椅子に博士の姿があった。私が身体の不調を訴えると、彼はふらりと立ちあがってベッドの縁に手を置く。

「……博士。あの、体、重いです」

「それが?」

「薬の、……せい、ですか」

 前回の投薬からは約一週間が経っている。その場かぎりの激痛と気絶だけが薬の作用なのだとばかり捉えていたが、もしかしたら今回になって新たな薬物が用いられたのかもしれない。そう思って尋ねたのだけれど、博士はいいやと否定した。

「ただの風邪だ」

 私は口で呼吸をしながら天井を見上げる。真四角なはずのそれが滲んでいるように見えた。

 ――この体は、まだ、熱を出すのだ。

 精神のほうはもう惰性で生きているだけだというのに、体は自ら脈を刻み、身体を蝕む細菌に対抗しようと熱を出す。精神が体を冒しても、体は一途に精神を支えるのだ。持ち主が、自ら薬でその体を削っていようとも。

 クリップファイルを神経質に自分の足に叩きつけながら、博士は馬鹿にするような口調で言った。

「栄養不足で免疫が衰えているんだろう、自業自得だ」

「食欲がなくて……」

 何度もくり返された言い訳だった。案の定博士には「知るか」と唾棄される。

「迷惑しているのは俺のほうだ。実験ができない、部屋も離れられない、点滴をさせられる、散々だ」

「点、滴?」

 口が滑ったというように、博士が苦い顔をする。しかしもう聞かないふりはできなかった。

「博士、点滴ってどういうことですか。私、身に覚えがありません」

「……ただの栄養摂取だ。眠っているあいだに刺していた。実験の類じゃない。知らせる必要もなかった」

「博士がっ」のどに痰がからんで咳きこんだ。声を荒げすぎたのだ。ベッド際に置かれた水を口に含んで、大きく呼吸をする。「……博士が、打っていたんですか。私が食事をしないから。私のために?」

「お前のためじゃない、仕事のためだ」

 すげない言葉が返ってくる。そうしながら、彼は心底つまらなそうな顔をしているのだった。

 被験体の健康に気を使うところまでが科学者の務めなのだということは理解していた。そして彼の管理の対象は容易く数値に表れてしまうような体温や脈拍、そんなものだけなのだろうと思っていた。けれど点滴のことを口に出さなかったのは博士の判断だ。

 私が心苦しさを感じないように。黙って、本人にとっては面倒なことこの上ないような作業をくり返して。

「あの……食事、食べます」

 思わず口走っていた。博士が目を眇める。

「どういう風の吹きまわしだ?」

「博士が、大変なら。ちゃんと食べます。点滴もいりません、ちゃんと、ちゃんとします。ごめんなさい」

 精一杯の言葉だったが、博士は険しい顔をして押し黙る。また気に障ることを言っただろうかと不安になっていると、彼はベッドから身を離してしまった。

「却下だ。手配したぶんの薬品がまだ残っている。それが終わってからにしろ」

 下された指示は、あまりにも予想外のものだった。私はぽかんと口を開けてしまい、紛らわすように視線を揺らす。

「……願い、叶えてくれないんですか」

「我慢しろ」

 言っていることは、もう、さっきとは反対なのだった。

 博士は私に背を向ける。ふたたびパイプ椅子に戻るのかと思いきや、そのまま部屋を出ていこうとする。あ、と思った時には、私は博士を呼び止めていた。億劫そうに首だけをこちらに向け、悪態をつきかけた彼だけれど、ややあって思い直したのか扉に背を預けた。そうしてぶら下がりかけた腕を組む。

 用があるなら早く言え、とその顔は言っていた。無視されなかったことに内心ほっとする。

「この前、話……博士と、あの人の話を、聞きました」

 博士の相槌はない。いつものことだ。

「私、たちに、家族がいないって本当ですか。『ここに来ている時点』ってどういうことですか」

 今なら答えてくれるだろうと願いをこめた。微動だにしない彼の表情を、ぼんやりとした視界のなかにとらえながら言う。

「ある条件から被験者が選ばれるって、博士、前に言いましたよね。それと関係があるんですか」

 教えてください、お願いします。頭は下げられなかったので目蓋を閉じ、また開いた。聞き終えた博士は一度余所を見て、なにかを考えているようなそぶりを見せる。彼が返答に時間をかけるのは珍しいことだった。いつもは言葉を選ぶことをしないためだろう。

「被験者の選定基準は公にされない。科学者は実験と管理を請け負うだけで、選ぶのは国だからな。……あの馬鹿の言うことには」一度息を切って、博士は続けた。「家族、身寄りのない人間であること、それが被験者の条件だそうだ」

「身寄りの、ない」

 どこにも繋がりをもたない人間だけが、実験の被験者として選ばれる。それが指すのはつまり、彼らは消えていなくなっても構わない人間だということ。そして私もそのひとりだということ。――国に選ばれた、『死んでも構わない』人間だということだ。

「あいつは馬鹿だが頭は切れる。情報分析にまず間違いはない」

 私に向かって『あいつ』と呼ばうからには、それは先日博士と会話を交わしていた青年のことを指しているのだろう。事実国の管理下で実験を任されているのだから、彼もまた相応の知識と才覚を有した人物であるはずだ。

 もちろんそれは博士も同じだ。博士は推定や想像でものを話さない。それは科学者に合った性であるのだろう。確実であることと、自分の感じたことだけを、聞かれたときに限って伝えるだけだ。だから人から聞いた話を、そして他人の判断を博士が自分の口で語ったことに、私は少なからず驚いていた。

 そう、驚いていた。

 けれど――驚いただけだったのだ。

 私には家族がいなくて、もう帰る場所もないということ。すべて忘れてしまっていた私には、それが似合いだと思った。大切であるはずの家族の心配をよそにこんなところで暮らしているような、薄情な子供でなくてよかった、と他人事のように考えてしまうほどに。

 恐ろしくないのは、今の私が空っぽだからだろうか。記憶があったころの私は、なにを思ってこの実験を受け入れたのだろうか。

 自殺願望でもあるのかと博士は言ったけれど。

 私はここで、死んでしまいたかったのかもしれなかった。

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