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さんざめく耳鳴り

 朝食のパンをちぎって、私はちびちびと口に入れていく。

 目を覚ました途端に食べたいものはと問われたので、特に嫌いなものはないという趣旨のことを伝えたところ、博士は至極面倒そうに、パンとスープ、小鉢のサラダという簡素な食事を運んできたのだった。額にしわが寄っているとはいえ、私の返答に文句があるわけではないだろう。たとえ特別な食事を頼んだとしても同じ顔をされたはずだ。

 ついでのように博士が枕元に置いたのは、小型の電波型目覚まし時計だった。

 デジタルの数字が午前の七時過ぎを示しているのを目にして、私は少なからずほっとしていた。昼夜が逆転した生活を送っていても、アナログの時計が設置されているだけの部屋の中では気付くことができなかったのだ。

 その時計の代償だとでもいうように、私の左腕には腕輪型の機器がぴったりとはめられることになった。内蔵されたICチップが錠前の役割を果たしているようで、鍵となる管理者のカードがなければ外れない仕組みになっている。その腕輪には発信機が埋めこまれており、この建物にあるという中央管理室において一括して監視が行われているようだった。

「あの、博士」

 パイプ椅子で書類をめくる彼は顔も上げない。話だけは聞いていることを信じて続けた。

「部屋の外に、私は出てもいいんでしょうか」

「好きにしろ」

 被せるように返される。その間、彼は視線一つも私に寄越さなかった。

 博士の返事はあくまでも返事の域を出ない、というのが、昨日今日で学んだことだった。無駄な補足を加えることもなければ、私に向かって安易な同情もしない。問われたから答える、それだけだ。もちろんファイルに書いてあることを尋ねれば無視されるのは目に見えていた。

「それじゃあ、あの透明な壁の外は駄目ですか。建物の外は」

「馬鹿か、許可する訳がないだろうが」

「でも、ファイルには監視者の同行があればいいって――」

 舌打ちに言葉を遮られる。その段になって、博士はようやく書類から目を離した。

「何故、俺が、お前なんぞのために、わざわざ外出しなきゃならないんだ」

 その言いように私は言葉を失った。

 でもと食い下がることも、そうですかと引き下がることもできないまま視線を落とす。結局諦めて食事を進めることにしたが、惰性で一口だけすすったスープは味気なかった。そう感じるのは自分の心持ちのせいだろう。

 私の手と口が完全に止まったのを見て、博士は朝食のトレイの上に二錠のカプセル薬を落とした。

「食わんなら実験だ。飲め」

 半分しか減っていなかったコップの中の水が、ピッチャーによって注ぎ足される。

 トレイの上を転がるカプセルをすくい上げて見つめてみる。そうしたところで外見は市販の風邪薬となんら変わりない。緑と透明のカプセルに、みっちりと粉末状の薬品が詰まっているだけだ。

「飲むだけですか?」

 いいから早く飲め、と言わんばかりの視線が答えだった。けれど昨日の男の人のことを思い出して、動きかけた手が鈍る。

「……飲んだら、どうなるんですか」

「体内の細胞を一定量死滅させる。それは比較的軽度のものだ。半日気絶する程度で済む」

 話の内容は壮絶なものであるはずなのに、博士があまりにも淡々と言うものだから、手に乗せたそれがまるでビタミン剤かなにかのように見えてきてしまう。

 そもそも私には、飲むほかにどうしようもないのだ。二錠のカプセルを勢いづけて口に放り、コップの水で流しこんだ。息を詰めて待つ、十秒、一分。しかしこれといってなんの変化も起こらない。

「あの、博士」

「じきに来る。寝ていろ」

 言われるままに、もぞもぞと布団に潜りこんだ。目を閉じようとするけれど、博士の目が気になって眠ろうにも眠れない。どうにか指示を仰ごうとして口を開けた瞬間、

「――ひっ!?」

 喉の奥が引きつった。体じゅうに寒気が走り、全身を覆った毛布だけではとても温まりようがない。すぐにがくがくと大きな震えが襲ってきた。恐ろしさに膝を抱えこもうとするも、まったく力が入らない。はっ、と息を吐きだしたが最後、次の空気を吸いこむことができなくなる。頭を裂くような痛みと、目がくらむほどの耳鳴りがしていた。

 筆記音が聞こえて、衝動的に博士を呼ぶ。――博士、博士、どうして、どうして助けてくれないんですか、このままじゃ。このままじゃ、本当に。本当に? 助け、嫌だ、怖い、痛い、助けて博士、博士、はかせ、

「……はかっ」

 がつん、と頭を金槌で殴るような衝撃が走り、私は意識を失った。


   *


 夢を見る。

 私を包むのは、眩さを伴わない光。しかしその光は質量と色を持ち、奥にあるなにかを覆い隠してその断片すらも外には出さないのだ。そうして私はただ、歩くことも、呼びかけることもないまま、光のなかに立ちつくす。赤も、青も、発った一点の黒でさえ、世界には現れない。

 また同じ夢だ。それだけはよく分かっていた。

 いつからこの夢を見るようになったのだろう、と考えるけれども、やはりどうしても思い出せない。記憶を失ってからか、それとももっと前からなのか。たったひとりで立ちつくしているというのに、恐れも不安も感じないのは何故なのだろう。

 光、光、光。

 私は目を瞠る。ひとりきりだった夢のなかに、誰かが現れた。体も顔も見えはしないけれど、その手だけが、私に向かって差しのべられていた。その人は光の向こうにいるのだ。

 握りたい。腕は動かない。届かない。

 わたしに気付かなかったのか、それとも諦めてしまったのか、手が光の向こうに消えていく。待ってと叫ぼうとして声が出ないことに気付いた。

 これでは悪夢だ。光が包んでいるのに温かさを感じない。

 手が消える。その指先が光に埋もれた。

「あなたは――」

 誰。


 傾く体、沈んだ足が、夢の終わりを告げる。そして私は穴の底へと落ちていった。


   *


 目を覚ますと、仏頂面をした博士の顔が視界に入った。彼はちらと時計を見やり、ファイルに一言書きつける。

「気分は」

「な……にも」

「目まい、倦怠感、吐き気」

「ありません」

 適当に問診を終えて、彼はボールペンの芯をしまう。めくりあげられていた手元の書類を戻しながら息をついた。

「八時間か。まだ改良の余地があるな」

 そのひとりごとの意味を問う間も許されない。博士は早足で部屋を出ていってしまい、部屋に残されたのは私と無機質な時計だけとなった。午後三時を示すその画面で、自分が丸八時間ものあいだ意識を失っていたことを悟る。

 私は大きなため息をついて、寝がえりをうった。

 実験と称された投薬は、想像を絶する激痛を引き起こした。しかしひとたび意識を失い、目を覚ますと、その痛みは夢であったかのように吹き飛んでしまっていたのだった。体のだるさも、熱を出している様子もない。半日気絶する程度だというのは本当だったのだろう。博士の反応が芳しくなかったのは、結局私が十時間と眠っていなかったためだろうか。

 体を起こして、逡巡。ずるりとベットから出た。眠っては起きてをくり返していれば、本当に時間の感覚が狂ってしまいそうだ。地下にあるこの部屋には日の光さえ入ってこないのだから。

(太陽の光、って、どんな色、だっけ)

 温かかっただろうか。眩しかっただろうか。目も開けられないような光だったのだろうか。どうしても思い出せなかった。

 やはり博士に外出を頼もうと思い立ち、部屋の扉を開く。二度目の廊下を抜けて管理室を目指した。おそらくそこにならば博士がいるだろう。

 大部屋に出ていこうとして、私は耳に入った話し声に身を固くした。

「……ひどいもんだよ」

 声質と喋り方に聞き覚えがあった。博士ではない、とすると昨日見かけた青年のものだろう。彼に気付かれないよう、死角になる場所へと移動して耳をそばだてる。

「もうぼろぼろの、ぐっちゃぐちゃ。骨ってあんなに簡単に折れちゃうんだね? もう俺びっくりしちゃって」

「お前の感嘆なんぞどうでもいい」

 切り捨てた言葉は博士のものだった。そっと中の様子を窺うと、青年と博士が話しこんでいるのが見えた。

「まあそう言うとは思ったけどさ。……ああ、そういや、今日は実験日なんだっけ。あの子はどう? ほら被験体の。長良愛里ちゃん」

 思わず体が震えた。意識して呼吸を浅くし、会話に耳を澄ます。

 博士はやや間をおいて、首を振った。

「薬を毒だと分かっていながら飲んだ。あれはなんだ? 自殺願望でもあるのか」

 へえ、と上滑りした声。

「素直ならいいんじゃない。俺の前……ああ、安井くんの前ね、その女の子なんて、実験する前から日がな帰りたい帰りたいって泣いてたよ」

 からからと青年が笑う。けれど博士は答えない。

「馬鹿だよねえ、ここに来ている時点で、もう帰る場所なんてないのにね」

 どういう、ことだろう。

 身を乗り出して聞こうとしたとき、私は左手の腕輪のことを完全に忘れてしまっていた。それは廊下の固い壁に衝突して、無情にもかあんと高い音を響き渡らせる。会話以外に音のない廊下には、誤魔化してくれるような雑音は存在しなかった。

 含み笑い。私に気付かないわけもないだろう、けれど青年はなおも会話を続ける意志を見せる。

「あの子たちの家族はもう、みんな死んじゃっているんだからさ」

 それはまるで、私に聞かせるように。

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