願いのかなう場所
重力が戻る。そうして痛みもなく着地した。きいんと耳鳴りがして、不確かだった体には触覚が宿る。
「おい」
夢のなかにまで侵入してきた声は、やはり聞き覚えのないものだった。水に溶けるようなまどろみに包まれた私へと、彼は幾度も乱暴でぶしつけな呼びかけを続ける。
「起きろ、おい。いつまで寝こけているつもりだ」
彼に従いまぶたを開くも、不思議と眩しさは感じなかった。その空間を包んでいるのが、ベッド下に設置された間接照明に限られているためだ。どうやら他に光源は存在しないようで、部屋は曖昧なほの暗さに満ちている。
意識が形を取り始めるにつれ、ぼんやりと移ろっていた私の視界も徐々に焦点を結んでいく。そうしてやっとのことで見とめたものは、灰色の天井と何者かの影だった。
忌々しげに眉間にしわを寄せ、その男はふんと鼻を鳴らす。
背が高いように思ったのは私が横になっているからだろうか。目つきはお世辞にもいいとは言えず、への字を描いた口元には不機嫌さを隠そうともしない。首をひねって頭の角度を変えれば、彼が白衣を羽織っていることに気がついた。ボタンの留められていない襟口からは飾り気のないシャツとネクタイが覗いている。
そうして観察を続けていられるのもわずかな間だった。前触れもなく、彼が口を開いたからだ。
「長良愛里。十四歳。間違いないな」
「……あなたは?」
私の口をついた問いに、彼はひとつ舌打ちをした。
「俺じゃない、お前のことを訊いているんだ。答えろ。長良愛里、お前のことで間違いはないな」
きつい口調に、しかし、私の肯定や否定は意味を為さなかった。
他人の名前のように響いてきたそれを否定しようにも、記憶の中には確固とした自分の名前が見つからなかったのだ。本来あるべきものが削り取られたような感覚はひたすらに空虚だった。私は困りきってしまい、視線を揺らす。
「わかりません、でも」もう一度だけ思い出そうとして、結局首を振った。「私のことかもしれません」
案の定彼は眉間のしわを深くする。
「ふざけているのか?」
「そんなつもりは、ないです」
「そうでなければただの阿呆か。チッ、俺にこいつを押しつけたのは誰だ」
ぼそぼそと続いた悪態の矛先が自分でないことを願った。数秒間地をねぶった彼の目がふたたびこちらに向けられるのを確認して、私は言い訳がましく続ける。
「思い出せないんです。名前……と、他のこと。思い出。全部」
「記憶障害か」
面倒そうに問われる。哀れむでもない彼の態度は、不思議と心地よさを感じさせるものだった。慎重にうなずけば大げさにため息をつかれる。
「どうするんだコレは……支障のうちに入るんじゃないか。くそ」
「実験?」
「煩い。考えているんだ、口を挟むな」
どこまでも自己中心的な言葉を放って、彼は頭を抱える。そのまましばらく余所を睨みつけていたが、やがて観念したように口を開いた。
「お前に記憶があろうとなかろうと関係ない。説明の手間は増えるが、まあいい」
彼は左手に抱えていた資料の束に目をやる。クリップでひとつに留められた紙の端を数枚めくり上げ、白衣の胸ポケットからボールペンを引き抜いてなにごとか書きつけた。そのまま、私のほうには一度として顔を向けることもなく、無機質な声で資料を読み上げ始める。
「国家協賛の生体実験。目的は対人薬物の開発。お前はその被験者に選ばれた。一定の条件を満たした人間から無作為に選出された、六十人のうちの一人だ」
「薬物…? あなたはお医者さんなんですか?」
「話を遮るな」苛立った様子で言って、彼はため息をついた。「……俺は医者じゃない。取り扱うのも医療用の薬剤じゃない」
私は首をかしげた。医療を目的としない薬などあっただろうか。
考えること数秒、合点がいって思わず声を上げた。彼が意味するところはその反対なのだ。理解が早いなと、しかしさほど興味はなさそうに呟いて彼は続けた。
「最終目標は薬物兵器の開発。そのための毒物の製薬。効果を実験するためのお前だ」
言葉を失った私に、やはり配慮はない。畳みかけるような説明が耳に流れこむ。
「実験当日まで、お前には研究員……俺の監視のもとで生活してもらう。代わりに食料、衣服、その他諸々が、お前の要望に応じて価格を問わず支給される。有り体に言えば欲しいものがなんでも手に入るということだ。国の金でな」
なにか質問は。マニュアルに書いてあるから仕方なしに読み上げたと言わんばかりの無気力さだった。彼が言葉を切ったのを機として、私の視線がゆっくりと落ちていく。
生体実験。実験体。――人が人を殺すために、殺される人間、だ。
空になった頭に、むしろそれはあまりにも素直に吸いこまれていった。彼のよどみのない口調は私に困惑を許さず、流れる水をただ器に受け取り続けるような心持ちでいることのみを要求していたのだ。一度そのせせらぎが落ち着いてしまったとき、私は不意に生まれた沈黙に戸惑ったほどだった。
「なんでも……って、言いましたか」
「料理、服、靴、鞄、化粧品、好きにしろ。金で賄えるものならいくらでも揃えてやる、ただし」そこで釘を刺すように。「お前の行動の自由は認めないがな」
「……それは、構いません、けど」
彼が眉を動かした。しかし意外そうにしていたのもその一瞬だけで、またつまらないものを見るような目を私に向ける。すぐに関心を失ったのか、顔を背け、壁際に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしてしまった。
人付き合いは得意ではないのだろうと思う。それとも私への態度は、実験体へのそれなのだろうか。
「博士」
体を起こして呼びかける。こちらを窺う様子があって、彼はまた資料に戻っていった。
「あの、博士」
「……なんだ、それは。俺のことか」
「はい、……すみません、お名前を聞いていないので。教えてもらえ、」
痛烈な舌打ちが問いかけを断ち切る。そのまま彼は顔を背けてしまった。
なにが彼の気を損ねたのかは定かではない。そもそも機嫌の良し悪しにかかわらず、彼は私に名を教える気はないらしかった。彼にとって私はあくまでも被験体であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。規定された距離を縮めるつもりなどないのだろう。それどころか関わりを最小限にまで減らそうとしている節すらある。
問いつめることを諦め、私は手持無沙汰になった両腕で自分の膝を抱えた。――細く白い腕、脚。運動などとは無関係そうな肢体が、そこにはある。記憶を失う以前の私はほとんど外に出なかったのだろう。しかしその予想を裏切るように、右半身にはいくつか擦りむいたような傷跡が残っていた。何故なのだろうと考える暇もない。唐突に、私の足元を目がけてファイルが飛んできたからだ。布団に勢いを吸収されたそれは、先ほどまで彼が抱えていたものに違いなかった。
つられるようにして顔を横に向ける。彼はファイルを放り投げた腕を下ろすところだった。
「分からないことはそれを読んでから質問しろ。既に書いてあることには答えん。一切だ」
そう言って彼が手をかけたのは、部屋にただひとつ立てつけられた扉のドアノブだ。内側に鍵穴はない。理由は単純、外側から鍵をかけるからだろう。そして彼のような人間が、被験体をみすみす自由にするような真似をするはずがない。
――置いて行かれる。そう直感した瞬間、息を吸っていた。
「あ……あの、博士!」
心底面倒そうに、首だけがこちらに向けられる。
しかし、がむしゃらに発した一声に続きなどない。鋭い視線から逃げるように目をそらした。「――って、呼んでも、いいですか。あの、」口をぱくぱくと開閉して、やっとのことで理由を結びつける。「この資料には、たぶん載ってないです。あなたの呼び方なんて」
答えはすぐには帰ってこない。痛いほどの沈黙に耐えきれず、口のなかに溜まった唾を飲み下した。
なんとなく、この感覚を知っているような気がした。他人に見つめられることへの怯えが、体に染みついているのだろうか。濁った空気が重みを増して私にのしかかる。私が意識して行った呼吸を遮るように、彼は吐き捨てた。
「好きにしろ」
間を置かずに扉が開かれ、そして部屋の空気から質量が消える。ひとりを残した部屋の扉にはいとも簡単に鍵がかけられた。
軽いようで重い音の残響がいつまでも耳の奥に残るように感じられて、私は膝を抱えた腕に力をこめる。取り残された部屋には音ひとつしない。ふと上げた視線の先では、壁に取りつけられた時計の文字盤の上を、秒針がひっそりと進んでいた。時刻は九時を過ぎたところ。それが午前か、午後か、窓のない部屋のなかでは判断のしようがなかった。
「……そうだ、資料」
自分を急き立てようと呟き、足元のファイルを取り上げる。数枚をめくって、思わず顔をしかめた。綴られた文字列には、確かに彼の言葉を否定するものはない。素っ気のない文章で実験による目的と手段――すなわち対人薬物兵器の制作と実験法――が語られ、補足するように過去の実験結果が羅列されている。
しかし本来、この文書は被験者に見せるものではないのだろう。私の頭では理解の追いつく部分のほうが少ないありさまだ。そのうえ十数枚を数える書類のうちの後半には、難解な化学式と乱雑な描き留めのコピーだけが残されている。そこに至った段階で私は解読を諦め、ファイルをベッドの上に落とした。
手に入れた情報はひとつ。担当の研究員は極力被験者の傍に留まり、その要求を実験に支障の出ない範囲で叶えねばならない、ということだ。ならば説明が済むなり用はないとばかりに部屋を出ていった彼は、その指令に従っていないことになるのだろうか。
思いを馳せた末に首を振る。彼を責める気分にはなれなかった。他人と話をするのが苦手なのは私も同じことだ。独りにされることを恐れこそしたが、いざ静けさに包まれれば安堵している自分がいた。
そのまま力を抜いた途端、糸が切れたかのように体が傾いで、ベッドの上に転がった。今しがた眠りから覚めたばかりだというのに、四肢からは徐々に力が抜けていく。あくびを漏らす力もない。やがてとろんと目蓋が落ちた。
暗澹。暗闇。黒一色の視界に浮かぶ影はなく。
「………………、」
縋る名前も、見つからない。
*
どれぐらい眠っていたのだろうか。夢を見ていたような気もするけれど、目が覚めた途端に薄れて消えてしまった。頭を揺らしながら体を起こすも、部屋にいるのはやはり私だけだ。這うようにベッドから抜け出して、駄目で元々とドアノブに手をかける。続いて「あれ」と間抜けな声を漏らした。
かけられているはずの鍵が開いているのだ。施錠の音は寝る前に確かに聞いたから、誰かが部屋の前を訪れ、わざわざ開けていったのだろう。考えること数秒、おずおずとそれをひねる。あっけなく開いてしまった扉から外を覗いた。
「だれ、か」
いますか。
小声で尋ねても返答はない。それも当然だ、部屋の外には延々と薄暗い廊下が続いており、そこには人っ子ひとり見当たらないのだから。私は一度扉を閉めてひとつ深呼吸をし、逡巡のあとに、ふたたび、今度は大きくそれを開け放った。変わらず人の気配はない。
――行ってみよう。覚悟を決めて部屋を出てしまうと、足は勝手に動いてくれた。
歩き出してすぐに違和感を覚えた。その廊下には、私が出てきた部屋、そして向かい側に設置されたトイレやシャワールームに通じるものの他には扉が取りつけられておらず、それどころか窓のひとつも見あたらないのだ。もしかしたら、ここは地面の下に位置しているのだろうかと考えながらしばらく歩くと、永遠に続くように思えた廊下も唐突に終わりを迎えた。
私を出迎えたのはぽっかりと開いた大部屋だ。廊下と一続きになった壁に壁紙が貼られているはずもなく、それは閉鎖的に空間を取り囲むだけの機能を果たしている。私が歩いてきた方向の反対側にも同じように通路が続いており、左手に目を向ければ、そこにはエレベーターが設置されていた。階数の表示はB1、思った通りここは地下であるらしい。
目を引いたのは、部屋を並行に横切る二枚の透明な壁だ。エレベーターを中心として、私のいる通路と反対側の通路を切り離している。隔離病棟のようだという第一印象も、状況を鑑みる限りおそらく間違いではないのだろう。なにしろ私は、被験者という言葉を先ほど聞いたばかりなのだ。
エレベーターのちょうど向かい側、私の右手の壁には、三つの区画に一枚ずつの扉が取りつけられている。博士のような科学者たちはその部屋の中にいるのだろう。
「……だれか」
呼びかけに答えはない。ここでも私はひとりだった。
恐る恐る大部屋に足を踏み入れる。そうしてよく見てみれば、透明な壁にはやはり透明な扉が、くり抜いたように設置されているのだった。しかしその扉には今度こそ鍵がかけられている。鍵穴こそこちら側にあるけれど、もちろん私はそれに差すべき鍵を手にしていない。
――行動の自由は認めないがな。
博士の言葉を思い出して嘆息した、とき、だった。
反対側の通路から、勢いよく駆ける足音が聞こえた。間もなく大部屋に姿を現したのは中年の大柄な男だ。彼のあごに生えた無精ひげと首元に下がったシルバーのスカルネックレスは、私をぎょっとさせるには十分だった。彼は私を視界にとらえると、はっと息を飲む。
「あんた、被験者か!?」
目を左右にやってから、うなずいた。男は切羽詰まった様子で透明な壁に走り寄ると、手元に握っていた鍵で扉を開く。「その様子じゃ実験はまだみたいだな。鍵は科学者が持ってるから、あんたも早く奪って逃げろ!」
「あ、あの」
「奴らは俺たちを人間だなんて思っちゃいないんだ。奴らにとって俺たちはただの実験台、……モルモットなんだよ、ここにいたら俺もあんたも殺される」
「でも……」
「『でも』ってなんだよ!?」
男が透明な壁を殴りつける。びりびりと扉が揺れるほどの衝撃と轟音に、私は体を震わせた。
――怖い。
本能的にそう感じた。無意識に一歩後ずさった私に、男は目を血走らせて叫ぶ。
「お……まえ、奴らの肩を持つのか!? 人間を薬漬けにしてやがるんだぞ! 奴らは悪魔だ、人の皮をかぶった悪魔なんだよ!!」
――このひとはなにをいっているんだろう――?
がんがんと鳴り響いているのは声だろうか、それとも頭を揺らす警鐘だろうか。開いた口元から薄い吐息がこぼれ、指先が震える。足がすくんで動けない。私と男を分かつ壁はまるで檻のようだった。
ならば閉じこめられているのは、一体、どちらで。
「………………あ」
肩を引かれた。
思考が止まり、息を詰めた。力の抜けた体で一歩、よろけるようにうしろへ下がって、私は肩に置かれた手の先を見上げる。
冷ややかな目をした科学者がひとり。変わらない無表情のままで、立っていた。
「人間だなんだと、馬鹿な問答をする気はさらさらないが」長い前髪を乱暴にかきあげて、うんざりした様子で彼は言った。「俺たちが悪魔なら、お前は豚か? 安井英二」
壁一枚、声だけを通す透明なそれを挟んで、博士は彼に対峙する。なんだと? と低い声が答えた。
「お前が被験者になって二週間。出費先は酒、煙草、暴食、豪遊……いい身分だな、安井。そのくせ実験には一度も耐えられずに脱走か。モルモットが聞いて呆れる、お前には勿体ない呼称だろうが?」
「この野郎、言わせておけば……!」
轟音とともに、透明な壁がふたたび揺れる。男が勢いよく蹴りつけたのだ。
衝撃を受けた壁はびくともしない。特殊な素材が用いられているのか、薄さに反して壁は頑丈であるらしかった。けれど男の怒気と殺気は痛いほどにこちらに伝わってくる。博士に向けられたそれの余波を受けている気になって、私は唇を白くなるほどに噛みしめていた。一方で当の博士は心底馬鹿にするような目で男を見据えている。
そうしてなおも毒を吐きだそうとした彼の口を遮ったのは、ちいん、という場違いなエレベーターの到着音だった。その扉が開かれるや否や、中に詰まっていた黒ずくめの男たちが一斉に部屋に降り立ち、腰の拳銃を抜く。
八つの銃口が向けられたのは、壁を蹴りつけた男。
そのときになって鳴り響いた警報装置を、私は遠い物語を聞くような心地で耳にしていた。うろんげに顔を動かした博士につられて、視線を横に移動させる。膠着した状況にメスを入れるように、向こう側の通路からひとりの青年が姿を現した。
「……はあ、もう、痛いなあ安井くん。頭殴るのはナシじゃない? 大事な脳みそが馬鹿になったらどうしてくれんのさ」
青年は顔をしかめながら、自分の頭をさすっている。茶の混じった髪にはすっきりとはさみが入れられ、白衣の下に着ている衣服も若々しさの感じ取れる明るい色遣いのものだった。大学生ぐらいだろうかとも考えたけれど、彼が身につけているのは博士と同じ白衣に違いない。
彼はやおら頭から手を下ろし、肩をすくめた。
「まあいいや。契約違反はそっちだからね、恨まないでよ? ……ほら、連れてって」
瞬間、顔を真っ青にした男を、スーツ姿の男たちが取り囲んだ。絶叫をあげた彼は数人がかりで取り押さえられ、反抗もむなしく連れ去られていく。あとを追った私の視線と彼の視線が束の間交錯し、離れていった。助けを求める声もエレベーターの扉の向こうに消えていく。
「じゃ、またね」
指示を出した青年が私と博士のほうを見やる。そうしてにこやかに手を振ると、再び降りてきたエレベーターに乗って地上へと上がっていった。
取り残された私は、呆然としたまま口を開いていた。けれどかつんと床を踏んだ足音で我に返る。
「は、博士」
ひとり取り残されることは耐えがたかった。管理室に戻ろうとした彼を慌てて呼び止める。私の口から飛び出すであろう疑問には見当がついていたのか、博士は肩をすくめて言った。
「逃げようとすればああなる。覚えておくんだな」
「……あの人は、どこへ」
「知るか」
言い捨てて扉の向こうに姿を消す。がちゃり、と重い音が響いた。
――これは直感に過ぎないけれど。
もう私は、二度とあの男の人に会うことはないのだろう、と思った。