第2話 姉・摩耶と朝のコーヒー
「はい、玲央。ミルクとお砂糖、いつもの量でいいわよね?」
春の柔らかな日差しが差し込むダイニングルームに、明るい声が響いた。
目の前のマホガニーのテーブルに、湯気を立てるボーンチャイナのティーカップがことりと置かれる。漂ってくるのは、深みのあるブルーマウンテンの香りだ。
顔を上げると、銀色のポットを手にした姉が、柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。
西園寺摩耶。18歳。
今日から東京大学のオリエンテーションに参加する彼女は、普段よりも丁寧にブローされたハニーブロンドの髪を揺らしている。着ているのは春らしいパステルイエローのブラウスに、膝丈のフレアスカート。いわゆる「女子大生らしい」清潔感と知性を感じさせる装いだ。
「ありがとう、姉さん。助かるよ」
俺はカップを受け取り、素直に礼を言った。
弟として、姉の気遣いを自然に受け取る。前世では味わうことのなかった、穏やかで満ち足りた朝の光景。緊張で張り詰めていた心が、極上のコーヒーの香りと共にゆっくりと解きほぐされていくのを感じる。
姉は自分の席に座りながら、少し小首を傾げた。
「ん? どうしたの玲央。なんか今日、雰囲気が違う?」
鋭い。東大文科一類に現役合格するだけの観察眼か、それとも長年共に過ごしてきた肉親の直感か。
俺は動揺を表に出さず、カップに口をつけながら微笑んだ。
「そうかな? 高校生になるから、少し気が引き締まっているのかもしれない。姉さんこそ、今日から大学生だろう。緊張していない?」
俺が問い返すと、姉さんは「う……」と言葉を詰まらせ、苦笑いを浮かべた。
「痛いとこ突くわね。実はちょっとだけ、ね」
姉さんは焼きたてのバタートーストを手に取り、カリッという軽快な音を立てて一口齧る。
「周りはみんな、全国から集まった秀才ばっかりなんでしょ? 私なんかがついていけるか心配でさ。昨日も眠れなくて、つい友達と長電話しちゃった」
「姉さんなら大丈夫だよ。受験勉強の時、遅くまで机に向かっていたのを俺は知っているから。努力はちゃんと結果に出るよ」
俺の言葉に、姉さんはぽかんとした顔をした後、嬉しそうに目を細めた。
「……なんか、本当に大人っぽくなったわね。前は『姉ちゃんうるさい』とか『部屋に入ってくるな』とか言ってたのに」
「反抗期が終わったんだよ。今まで迷惑をかけた分、これからは親孝行と姉孝行をするつもりだから」
「もう。調子狂うなぁ」
姉さんは照れ隠しのように俺の頭を乱暴に撫でると、冷たい牛乳をグラスに注いだ。
「摩耶。入学式は来週だったな。今日は何だ?」
新聞を読んでいた父が、紙面から目を離さずに尋ねた。
「今日はオリエンテーションと、サークルの新歓があるのよ。パパ、私のクラス分けなんて興味ないでしょ?」
「そんなことはない。西園寺家の娘がどこの馬の骨と机を並べるのか、把握しておく必要がある。それに、大学ともなれば妙な輩も増えるからな」
父は新聞を畳み、テーブルに置いた。
一面の見出しには『有効求人倍率、過去最低水準』の文字が躍っている。長引く不況とリストラの嵐を伝える暗いニュースだ。だが、財閥の長である父の表情に揺るぎはない。
「もう、過保護なんだから! 玲央、パパになんか言ってやってよ」
姉さんが助け舟を求めてくる。
俺はコーヒーカップをソーサーに戻し、肩をすくめた。
「父さん、いくらなんでも心配しすぎだよ。姉さんはしっかりしてるから、変な男には引っかからないって。それに、過保護に干渉しすぎると、かえって反発を招くかもしれないし」
「ほら! 玲央の言う通りよ」
姉さんが得意げに胸を張る。父は少しだけ苦い顔をして、俺の方を見た。
「玲央、お前まで摩耶の肩を持つのか」
「事実を言ったまでだよ。……それより父さん、俺から少し相談があるんだけど」
俺は居住まいを正し、真っ直ぐに父の目を見た。
「ん? なんだ」
「高校に入ったら、経済の勉強を本格的に始めてみたいんだ。座学だけじゃなくて、実際に市場の動きを見て、自分の頭で考えてみたい。だから……未成年の証券口座を開設したいんだ。親の同意書が必要だから、サインをもらえないかな」
ダイニングルームに一瞬、静寂が落ちた。
姉さんが驚いたように目を瞬かせ、父は少し目を細めて俺を観察するように見つめた。
「……実学を重んじる姿勢は評価する。だが、遊び半分や小遣い稼ぎの感覚でやらせる気はないぞ。相場は決して甘いものではない」
父の言葉には、何千人もの社員を抱える経営者としての厳しさが滲んでいた。
俺は静かに頷く。
「遊びじゃない。自分で企業を分析して、社会のお金の流れを肌で学びたいんだ。もちろん、最初は自分のお小遣いの範囲でやるよ」
しばらくの間、父は無言で俺の顔を見つめ返し、やがて小さく息を吐いた。
「……よかろう。夜にでも私の書斎に来なさい。口座開設の書類と、同意書を用意しておこう」
「ありがとう、父さん」
第一関門突破だ。これで、あの手持ち資金を市場に投下する正規のルートが確保できる。
父は満足げに小さく頷き、腕時計を見た。出勤の時間だ。
「行ってくる。摩耶、玲央、二人とも有意義な一日を過ごしなさい」
「いってらっしゃい、父さん」
父の重厚な背中を見送り、俺は最後の一口を飲み干した。豆本来の甘みが引き出された極上のコーヒーが、心地よく胃に収まっていく。
★★★★★★★★★★★
父が出勤し、姉も出かけると、屋敷は完全な静寂を取り戻した。
使用人たちが気配を消して立ち働く中、俺は自室に戻った。
ドアを閉め、鍵をかける。
ここからは「高校生・西園寺玲央」の時間ではない。一人の「投資家」としての時間だ。
俺は広々としたアンティークデスクの前に座り、鎮座している最新鋭のデスクトップPCの電源を入れた。
『Fruits社』製のスケルトンモデル。ボンダイブルーの半透明な筐体が、当時の流行を見事に象徴している。
「ジャーン」という起動音が鳴り響き、懐かしいOSのロゴが画面に浮かび上がる。HDDがカリカリと物理的にデータを読み込む音すら、今の俺にはたまらなく愛おしい。
ブラウザを立ち上げる。
西園寺家には、既に専用線が引かれており、常時接続環境が整っていた。秒単位で課金されるテレホーダイの時間帯を気にしていては、億単位の取引などできはしないため、これは非常に助かる。
表示されるWebページは、テキストと少しの静止画を中心としたシンプルなものばかりだ。画像一枚表示するのにも数秒かかるこの重さ。動画配信など夢のまた夢だ。2025年の爆速回線を知っている身としては強烈な隔世の感があるが、一切の不満はない。この「未成熟さ」こそが、これから爆発的に成長する余地であり、莫大な利益の源泉なのだから。
まずは、今朝確認した大手都市銀行のオンライントレード画面にアクセスする。
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。
通帳に記されていた口座番号と、記憶にあるパスワードを入力する。
『ようこそ、西園寺 玲央 様』
『普通預金残高:31,000,000,000円』
画面に無機質に表示された、現実離れした桁数の羅列。
何度見直しても呆れるほどの額だが、確かにそこにある。
今夜、父から同意書をもらい、証券口座が無事に開設され次第、この資金を証券会社に移して運用を開始することになる。
俺は別のタブを開き、金融情報のポータルサイトにアクセスした。
まずは日本株の動向を探る。
1999年4月。ITバブルはまだ序章に過ぎない。
これから年末にかけて、日本のネット株は実体経済を完全に無視した狂ったような暴騰を見せる。
検索ポータル最大手の『Y社』と、それを率いる『S社』の現在の株価を確認する。
既存の指標で見れば既に割高に見えるかもしれないが、来年のピークを知っている俺からすれば、今の価格はバーゲンセールも同然だ。口座が開き次第、速やかに買いのポジションを構築する。
次に、米国市場の銘柄をチェックする。
『Amazing』。
現在はまだ、オンライン書店として莫大な赤字を垂れ流している段階だ。世間や一部のアナリストからは冷ややかな目で見られているが、彼らは物流への投資を止めず、やがて世界最大のプラットフォームへと変貌を遂げる。
そして目の前にあるこの美しいPCを作った『Fruits社』。
創業者が復帰し、経営危機から脱しつつある段階だが、本当の快進撃はまだ先だ。携帯音楽プレーヤー、そしてスマートフォン。それらが世界中の人々のライフスタイルを根本から変えるのは数年先の話だが、今のうちに仕込んでおくべき銘柄の筆頭だ。
俺はデスクの引き出しからノートを開き、投資予定の銘柄と、段階的な買い付けのスケジュールを細かく書き出していった。
手持ち資金の3割程度を分散して仕込む。
残りはキャッシュポジションとして温存しつつ、未公開株への投資機会を伺う。特に、まだガレージで検索エンジンを作っているはずの『G社』の創業者たちには、早急に接触する必要がある。彼らに直接出資できれば、将来的なリターンは計り知れない。
一通りの計画を練り終え、俺は息を吐いて革張りの背もたれに深く体を預けた。
資金の運用計画は固まった。
次は、俺自身の物理的な生活環境の整備だ。
この実家の屋敷も居心地は悪くないが、やはり家族や使用人の目がある以上、干渉は避けられない。
俺がこれから送りたいのは、誰にも気兼ねせず、自分の好きなことだけを悠々自適に追求する究極の隠遁ライフだ。
そして、そのためにどうしても欠かせない要素がある。
「料理」だ。
前世の俺にとって、料理はただの腹ごしらえではなく、自分自身と向き合う大切な時間だった。
市場で新鮮な食材を選び、繊細に火加減を調整し、完璧な一皿を完成させる。そのプロセスがたまらなく好きだった。だが、前世では多忙を極め、キッチンに立つ精神的な余裕すら失われていた。
今度こそ、誰にも邪魔されず、最高の環境で美味いものを作って静かに楽しみたい。
しかし、この広大な屋敷でそれは不可能に近い。
玲央としての記憶が明確に告げている。もし俺が厨房に入って包丁でも握ろうものなら、プロの料理人や使用人たちが血相を変えて飛んでくるだろう。「玲央坊ちゃん、そのようなことは我々にお任せください」と。
彼らにとって、主人の息子に家事をさせることは深刻な職務怠慢にあたるのだ。彼らの仕事を奪うわけにもいかないし、いちいち説得して納得させるのも骨が折れる。
だからこそ、自分だけの城が必要だ。
西園寺家が所有する都内の高級マンション。その最上階にあるペントハウス。
現在は海外からの賓客を招くゲストハウスとして空けてあるはずだが、あそこなら広さは十分すぎるほどだ。
セキュリティも万全だし、父さんに「通学に便利だから」「将来の自立の準備をしたい」と上手く理由をつければ、教育熱心な父のことだ、自由に使わせてくれる公算は高い。
あそこを俺の城にする。
業務用の高火力コンロ、広々としたオーダーメイドのアイランドキッチン、世界中から取り寄せたスパイスをずらりと並べる棚。
休日の朝には生地からパンを焼き、夜にはじっくりと煮込んだシチューを、いつか迎え入れる猫や犬と共に優雅に楽しむのだ。
想像するだけで、自然と口元が緩んでしまう。
俺は引き出しから真っ白なスケッチブックを取り出すと、ペントハウスのキッチンのレイアウト構想を描き始めた。
どのメーカーのオーブンを入れるか、冷蔵庫はどこの業務用のものにするか。
天文学的な資金の運用計画を練っていた時よりも、遥かに胸が躍っている自分がいた。
夜になれば、父の書斎に行って証券口座の書類を受け取らなければならない。
それまでに、この理想のキッチンの図面を完成させておこう。
俺は誰に聞かれることもない部屋の中で、静かに鼻歌を交じえながら、真っ白な紙の上でペンを走らせ続けた。




