九作
豊臣勢は小競り合い等を繰り返しながら日に日に軍勢を後退させていき、大阪城の周辺で集結する形になった。
大阪城を取り囲むように布陣した徳川勢の加賀藩二代目藩主で豊臣秀吉の尾張時代からの友前田利家の子である前田利常は武勇で名高い真田信繁(幸村)が守る真田丸の正面に一万二千の兵を率いて陣を構えた。
直孝は松平忠直と共に八丁目口・谷町口に自身が集めて率いてきた四千と松平忠直の一万を合わせた軍勢と布陣した。その他の軍勢も合わせれば四万近い兵が真田の五千に対する形になっていた。
1615年1月1日、家康と秀忠は茶臼山陣城を巡見して帰陣後に軍議を開いた。
「利常殿、塹壕を作り土塁も積んでまずは守りを固められよ。」
「それはなぜでしょうか?」
「ふむ、あそこには篠山という丘がある。
おそらく真田はそこに陣をおき、近づいた所に火縄銃での攻撃をしてこちらの数を減らしに来るでしょう。
兵を無駄にせず、各々の領地に帰って頂き、かつ勝利をおさめるがこの戦いの重要な所でござる。
なので、無理に城を攻めようとはせず時間をかけて向こうが白旗をふるように圧力をかけるだけで良い。」
「しかし、父上。戦の長期化は他の大名の離反に繋がりかねません。福島正則殿達のような豊臣恩顧の大名を江戸に留めているとは言え、その他の者らを押さえておくにも限界はあります。徳川の武勇は健在であると戦で見せる事こそが徳川の世を安定させるために必要と存じます。」
秀忠が意見する。家康は静かに
「秀忠が言うことも確かにそうではある。
だが、損害を受けただけで恩賞があまりでないとなれば次はこの中の誰かが反旗を翻すやも知れぬ。
世は安定し、それぞれの大名に土地をわけた今となっては恩賞により石高を加増させるのも難しい。
この戦は徳川の権威を示しながら如何に損害を各大名に与えずに勝つかなのだ。理解せよ。」
秀忠が納得していないのは長い付き合いの直孝には簡単に読み取れた。利常が
「家康公のご指示承りました。
塹壕を作りながら前進し大阪の城を一層孤立させて見せましょう。」
戦が本格化しそうになる中で大将が言い合いになるのを防ぐかのような立ち回りは流石だなと直孝は思った。
戦に参加する事もなかった直孝にすれば不安でしかない。この不安を抱えたまま直孝は自陣へと帰っていった。




