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アリア・ルージュの来歴表  作者: 千勢 逢介
第一章 『良いときも、悪いときも』
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9

 翌朝、<ルージュ工房>に向かう僕の足取りはけして軽くはなかった。


 宿屋で支払った宿泊料が思いのほか高額だったから? それもある。

 昨夜毛布をはいで寝てしまったものだから、身体が冷えて本調子じゃないから? それもある。

 今日も仕事で疲れた身を横たえるためだけに、また宿屋の高い宿泊料を払わなければならないから? それがいちばんの原因だ、と声を大にして言いたい。


 だが理由は、もっとほかのところにあった。


 牧草地に出て、丘の上にある大木の全体像が見えたところで僕は足を止めた。

 手の平に、血でぐっしょりと濡れたルージュさんの肩の感触がかすかによみがえる。


<ロザリンド>で美味しい夕飯を食べ、狭いながらも身を横たえられるベッドでたっぷり睡眠をとったというのに、追い払ったはずの悪夢がここにきてふたたび舞い戻ろうとしていた。


「あれは夢だ……あれは夢だ……」


 息を切らしながら、うわごとのように繰り返しながら丘を登る。

<ルージュ工房>を……悪夢の舞台となったあの場所を目指す。


 朝の新鮮な空気を吸ったおかげか、丘の中腹にある家に着いた頃には気分もだいぶ良くなっていた。それでも、ドアノブに触れようと手を伸ばした僕の手はかすかに震えていた。


 不用心なことに、この日もドアは施錠されていなかった。


「ルージュさん?」


 初日と違って木戸は開いており、窓から差し込んだ朝日が室内を照らしていた。

 そこに血まみれで倒れているルージュさんはいなかった。その代わり、彼女は机に突っ伏していた。


「ルージュさん!?」


 慌てて近づく僕の足音に気がついたのか、ルージュさんはがばっと起き上がった。


「バッファ!?」


 ルージュさん無傷で、夢とは違って血まみれでもない。

 ところで、さっきのは寝言なのか? だとしたら、どんな寝言だ。


「ああ、シャル」よだれのついた口元を拭い、ルージュさんが言う。

「よかった……」僕は思わず胸を撫でおろした。やはりあれは、ただの夢だったのだ。気を揉んでいたなんて、我ながら馬鹿らしい。「もう朝ですよ。仕事の時間です、起きてください」

「もうちょっとゆっくりさせてよ。今日の依頼は午後からだし、昨夜は遅かったんだ」

「そういうわけにもいかないでしょ。飛び込みの依頼が入ってくるかもしれないんですよ」


 毅然とした態度でいう僕をよそに、ルージュさんは緊張感のない大あくびをした。


「お茶かなにか淹れますよ。昨夜からずっとそのままだったんですか?」

「帰ってからちょっと調べ物をしててね。そのまま寝ちゃったみたいだ。ああ、台所は適当に使っていいから。水は裏の井戸にあるよ」

「いくら暖かくなってきたからって。そんなんじゃいまに風邪ひきますからね……って、井戸?」

「そう、井戸。使い方知らない?」

「いえ、知ってますけど」


 じゃあ、悪いけどよろしく。そう言ってルージュさんに送り出され、僕は大部屋の隣にあるキッチンを抜けると、勝手口から家の裏手に出た。

 より近づいたせいだろうか、丘の上の木はさらに高く感じられ、山頂に雪をかぶった山並みもさらにくっきりと見えた。


「でも、どうしてまだ井戸を使ってるんだろう?」家をまわりこみながら独り言を口にする。


 魔学が発達してから、各家庭や店ではどこも水道を引くようになった。

 水を生み出す霊素に直結した管を通し、末端の弁を捻るだけでいつでも水を出せるのだ。<魔学技術局>にはそんな水道を管理する部門もあり、定額を支払うだけで利用できる。

 カラスさんの家のキチネットにも水道管は引いてあった。ご高齢のひとり暮らしでは重宝することだろう。それどころか、もはや水道はあらゆる人々の生活にとって必須ともいえる。

 ましてやルージュさんほどの技量があれば霊素を作り出し、水道管を引くことだってできそうなものだが。


 そういえば、<ルージュ工房>には明かりも火付けランプくらいしかなかった。

 家庭によっては雷の霊素を使って据え置きのランプを利用するところもある。もっとも、こちらは値の張る代物なので、それほど世に出回ってはいないが。


 それでもルージュさんなら……そう思って顔をあげると、窓の向こうから当の本人が手を振ってきた。

 どうやら僕は、玄関とはちょうど反対にある大部屋の窓のところまで来たようだ。井戸はそこの裏手にあった。


 釣瓶と滑車が備えつけられており、手入れが行き届いているのか、古ぼけてはいるもののしっかりとしている。縄を手繰るという馴れない作業に、桶を水で満たす頃には手の平が痛んだ。


「やあ、助かった」


 桶の中身を貯水用の瓶に移したところで、ルージュさんが台所に入ってきた。

 彼女は柄杓で水をすくうと、直接口をつけて水を飲み、それから手桶にも水を満たした。


「毎日こうして水を汲んでるんですか?」

「仕事で日中は家を空けてるからあんまり水を使う機会はないけど、それでも日に一回はね。湯浴みもするし」

「お風呂ですか?」

「そう、外に作ってあるんだ。晴れた日なんかは星がよく見えるよ」

「なんかいいですね、それ」

「おっと、スケベな妄想かね?」

「そんなんじゃありません!」


 ポットに入れようとしていた茶葉を、思わずこぼしそうになる。どれだけ人をスケベ呼ばわりしたいんだ、この人は。

 それにしても、このからかいかたはなんだかロザリンドちゃんみたいだな。そう思いはしても、口にはしない。

 代わりに僕は訊ねた。


「でも、大変なんじゃないんですか? 中央から施工の技術者も呼べますし、水道を引けばいいのに」

「うーん。まあ、ねえ……」

「それか、自分で作ったりとか。ルージュさんならできませんか?」

「どうも、自分の生活が便利すぎるっていうのは嫌なんだよね」


 どうして、と質問しようとする僕をよそに、ルージュさんは顔を洗いはじめた。ややあって、手桶から視線を上げた彼女と目が合う。

 ルージュさんは井戸から汲み上げたばかりの冷たい水を顔から滴らせていた。細いあごと艶のある下唇、それから赤い髪の先と、睫毛からも……濡れてまとまった睫毛はいつもよりも長く見え、ルージュさんの女性らしさをぐっと引き出していた。


「どうしたの?」

「いえ、なんでも!」慌てて目を逸らす。「これ、使ってください」


 手近な布を差し出すと、ルージュさんはそれを受け取った。


「ありがと……って、これ雑巾じゃねえか!」


 そう言って布を床に叩きつけ、ぺっぺっと口の中のものを吐き出すルージュさんは、いつもの彼女に戻っていた。

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