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S3フラワーズ  作者: 青井けい
第二章 未知のXは悩まない
12/48

12. 水上ボンバー!

 夢は見なかった。気が付けば瞼を開き、武彦は天井を見つめていた。

 爽やかな、とは言いがたいが、朝である。

 どろどろの血液が濃縮し、脳の中を満杯にさせているように頭が重い。

 ロフトで半身を起こし、間欠的なまばたきで昨夜からの記憶を整理しつつも、かけ布団に落ちる眼差しは、知的生物には似つかわしくない虚無を湛えていた。


「無理だよぅ。浮いちゃってるよぅ」

「は!? ううう浮いてませんよ! いやね、ぶっちゃけありえない!」

「でも、隙間が……」

「目の錯覚ですから。ほら騙し絵的な? あはは、多分ー。っば、やめろ触るな!!」


 シャルルとゆきはもう起きているらしい。

 朝っぱらから妙に元気なやつらを見ていると、反対に気が滅入ってくる。


「無理しないでゆきちゃん。無理なものは無理だよぉ」

「あっれぇー! おっかしいなぁああ!? あ! わかりましたよぉ! これシャルルちゃんもサイズを間違えてるんですよ、ね、シャルルちゃんもスカスカで困ってるんでしょ?」

「あたしはぴったりだよ」

「嘘こけェ!」

「嘘じゃないよぅ、本当だもん! 見てよほら、ぴったりだよ!」

「え、で、でか……っ!? ……っ!! 馬鹿な……目の錯覚だ、錯覚に決まってますからに!! …………ひゃあーっ、やわらけー! もしかしてこれ、錯覚じゃない!?」

 はばかりもなく大あくびすると、武彦はロフトから階下を覗いた。

「んむうぅ、高一の癖になんてでかさですか! いっそ垂れろ!」

「分相応に生きるべしなのだ、ふふん。諦めて自分のブラをつけるんだな」

「っち。わたしにお花柄は永劫に遅かった……!」


 ゆきはブラジャーを外して、後ろ髪をひかれたように見つめた後、いまいましげに放った。

 白を基調に、鮮やかな橙色の花で飾られたカップ状の物体を目で追い、


「あ。お兄ちゃん」シャルルがロフトを見上げた。

 ゆきもつられて振り仰ぎ、「おや」と目を丸くする。


「どうも、どうも。おはようございます!」

「……っ。…………おはよう」

「んもう、あんたはまた暗いですね! 見てくださいよ! 今朝も快晴でございますよぉ。ほおら。いえ、わたしが操ったわけじゃあないんですけどもぉ! でへへへー」


 手で示されるが、生憎とカーテンが閉まっていた。

 彼女は脊髄反射でびへつらったものだから、大事なことを忘れていた。原始的なことを。

 ブラジャーを外して、両手は窓へ向けてしまうと。必然的に?

 へそまでの下腹部のラインから、引き締まった腹へ。そのまま視線で這い上っていくと、ふっくらと。たわわなある種の膨らみが。


「んふ?」


 なぜ窓のカーテンが閉まっていて、なおかつ、なぜ武彦が窓に目を向けずに固まっているのか。幾ばくかの逡巡を経て、ゆきも理解したようだ。

 瞬間。彼女の――水上ゆきの双眸そうぼうで、その瞳孔がきゅんと収縮したように思えた。

 人の目が死んでいる状態とは、あるいは思考が停止しているんじゃない。理性がぽいと捨てられて、残った思考と本能とが渾然と溶け合った状態である。

 振り下ろされる氷の棍棒を前に、武彦は意味不明なことをさとった。


「――ボンバァアアア!」

「っぎゃあああああああああ!」



 と、いうような珍事件が起こり。

 現在。水上ゆきはジャージを着て、全力全開の謝意で土下座していた。


「すいませぇええん、訴えないでくださぁい、ごめんなさぁああああうぁーっ」


 こればっかりだ。

 謝っているのが武彦でない理由は、部屋を見ればわかる。

 氷の棍棒の殴打で、兄妹の眠るスペースがまた狭くなった。ロフトの縁から垂れた布団が、廃屋じみた哀愁を演出している。

 ホラーテイストの前衛芸術を愛していない限り、器物破損の罪は、ゆきのなけなしの恥じらいを超えていく。それはもう易々と。


「お兄ちゃん、許してあげようよ」

「だけどな」

「ゆきちゃんがこんなに謝ってるのに。ねぇ、全部あたしが悪いんだよ」

「シャルルが悪いわけないだろ」

「思いやりの心を出してよう!」


 シャルルはわかっていない。思いやりの心で部屋が直るのなら、武彦もいくらかは出すつもりだったし、そうなれば誰かが〝思いやり〟の商品化を始めるはずだ。


「悪いけど、僕の思いやりは品切れ中かもしれない」

「お兄ちゃんっ! ゆきちゃんのお……胸を見たでしょ! 生で! 男なら、あれをなかったことにしちゃいけないよ! 判断材料に入れて、結論から引き算して!」

「ぐぼっ!!」


 シャルルの思いやりは、ゆきの心に強く――ともすると血を流すほど――ひびいている。

 ゆきは苦しげにうめき、土下座から力なくつっ伏した。

 額を床にくっつけて、独特な蠕動運動ぜんどううんどうでテーブルの下に逃げ込んでいく。しゃくとりむしと、ナメクジと、瀕死のゾンビとなら、どれで例えて欲しいだろうか。


「おい。下手なホラーよりも怖いんだが」

「あーあーお構いなく。汚いもんまで見せちゃってすみませんねー」

 挙句にすねていた。

「大体、お前は昨日の朝に出てったはずだろ!」

「朝から晩まで変態仮面を探してただけですよぅ。収穫はなかったんですけどぉー」

「だから戻ってきた、と?」

「なんすかー、文句あるんすかー? 通報したきゃあ、すりゃいいじゃないですかぁー」

「そうか」

「ちょ! あの、これは他愛のないクイズなんですけど。問い一、あなたを熊さんから守ってくれた奥ゆかしいお姉さんは、だあれだ?」

「良心的な理由から覚えていない。ただ、その件では仲間から罵倒を受けた」

「と、問い二! 朝から泣きたい気分の、あの子の名前は?」

茂来武彦もらいたけひこ」ゆきは眉をひそめた。素の反応だった。「僕だよ」

「あんたかい! お姉さんもびっくり! って、あのそこはぁ、真面目にですねっ?」

「誰かはわかるが、名前は聞いた直後に忘れたし、思い出したくない」

「うわぁっ! シャルルちゃあん! へるぷみー!」


 武彦は立ち上がった。そろそろ家を出ないと遅刻する。

 元からくせっ気のある髪の毛は、さらに寝癖が付いて跳ねたまま。朝食も済ませていないというのに、散々だ。

 通学鞄を肩にかけ、武彦は物欲しげに待機する女衆に目をやる。

 時に。女狐とは往々にして、人をだます女への蔑称として使われる。どう転んでも称賛の意味では使わないし、武彦も使わない。


 ただしシャルルを指して女狐と言ったのなら、もちろん称賛ではなくとも、必ずしも悪女へ吐きかける言葉でもないとわかる。

 シャルルは人をだまさないし、生れてこの方、尻尾を隠そうとしたこともなかった。

 その尻尾が今朝はしなびたように細くなり、しょんぼりと下がっていた。


(しようがないやつだな)

「ロフトのことは、この際だ。いいよ。金の当てもあることだし」


 毎月、学園側から『無敵英雄研究会』に贈られる援助金のことだ。

 発覚すれば大変なことになるが、まあ、怪人――本来の意味の――の襲撃で家が壊れたといっても過言ではない。貯蓄をつづけて腐らせるよりは、正当な使い道だ。


(多分)


「そのかわり、今日は学校に押しかけて来るなよ。わかったな?」

「あ、は、はい。心得ています。そっちには行きません」

「シャルルも遅刻しないようにな!」


 言うと、シャルルは嬉しそうに尻尾を振った。墨色の毛なみがふわり。持ち上がる。


「うん! ありがとお兄ちゃん! 行ってらっさーい!」

 明るい声を聞けば、やさぐれた兄も頑張ろうと思えた。

「うへへ、やるじゃないですかぁ。シャルルちゃんは悪女の才能がありますよぉーん」

「え、悪女!? ほんとぉ!?」


 急いで引き戻り、ゲス女に躍りかかる武彦だった。



          ♪  ♪  ♪



 改めて。本日も快晴である。

 全寮制未来学園VVで仕事を始めて、三日目だった。

 予定よりもにぎやかな生活になってしまったが――着替えを覗かれたり――にぎやかなのも悪くはないかな、と思うゆきである。

 本社を置く第六都市ティルタニエから、わざわざ片田舎くんだりおもむいた都市一体型の学園。

 水上ゆきは汗くさい学生時代に立ち戻り、青春を謳歌おうかしていた。

 学生とはどうしても汗くさいもの。それで正しい。

 が、高校ともなると、汗臭さに混じって、こましゃくれた香水の香りも漂ってくる。

 怖いもの知らずな若さが、鼻につくほどのにおいに現れていた。


 女子高生に囲まれながら、誰々の彼氏がイケてるとか、鮪の経済がどうの、女子力を上げる小物類の組み合わせはどうだのと、益体やくたいないお喋りを聞きながら体操服に着替えて、老人顔負けの緩慢さで移動する。

 今時分の少女たちの関心事は、もっぱらはませた話題にあるのだろう。

 自分を繕って背伸びをして、正確には、背伸びをすれば大人に届くと確信している少女たちの様子に、口元がついほころんでしまった。


(でも、誰もゲームの話はしないんだな。つまらんクラスだ)


「狙われてるよ、ゆきちゃん!」


 そんなこんなで、ゆきはドッジボールをしていた。

 ボールをぶつけ、またぶつけられることに悦びを見出すSM的なゲームだ。投げつけられたボールに当たると外野送りとなり、内野の全員がいなくなると負け。

 体育といえば、何を差し置いてもまずはドッジボール。常識だ。


 唐突ではない。ゆきの転校生大作戦は、シャルルの通う経営学科では難なく成功していた。

 女生徒専用の花園的な校舎である。

 経営学科でドッジボールが行われる理由は……定かではないが、大学と違って、未来学園の専攻学科はあくまで追加教養に過ぎない。体育の時間もあろう。

 ゆきは正面から飛んできたボールを横っ飛びでよけた。

 四角いコートにはゆきと、相手のコートに一人だけしか残っていない。

 他の女子は、実力の数百倍は足らないやる気のせいで外野に回り、彼女たちの唯一無二の親友ともいうべき携帯電話をいじくり回している。

 経営学科なのだし、株価を操作している可能性もなきにしもあらず、だ。

 応援しているのはシャルルだけ。外野に回ったボールは全て彼女が回収してくれる。

 体操服と、その隙間からはみ出た尻尾の組み合わせは殺人的だ。


「いっきますよー!」


 シャルルからボールを渡され、ゆきは宿命のライバルを見据えた。

 敵側のコートにぽつねんと残っている少女が、反対に見返してくる。

 ふんわりとしたブロンドの髪に、広いおでこがチャームポイントのクラスメート。彼女も二週間前に転校してきたばかりらしい。

 小柄な身体に、感情にとぼしい小顔を乗せ、対照的に巨大なフォークを背負っていた。


 巨大なフォークを。


 けさにかけた筒(鞘?)に入れられた巨大フォークは、ぬるりと輝く銀製だ。萌えキャラの特徴づけみたいなものだろう、と好意的に解釈しておく。


「かっとべ! 水上スペシックメーサー!」

「むむ……ハイテク」と、少女。


 ゆきが普通にボールを投げたのを見て、少女は鼻で笑った。

 投げて、止められ、投げられ、避けて(シャルルがボールを回収)、投げて……避けて(シャルルがばてる)、投げて……を延々とくり返す。

 転校生同士の本気のドッジボールは、五十分続けても決着がつかなかった。最後には、教師まで携帯をいじり出す始末である。

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