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最近、いい人いないの?
齢41の娘に対して放たれた母親からの言葉に、口につけようとしたカップの中で波打つコーヒーが溢れないようにバランスを取りながら、香菜子は自分の耳を疑った。
「は?なにそれ」
次いで出た言葉もあまりに素っ頓狂なものだった。
41歳、子持ち、バツイチの女に対して、母親からの突然の質問を反射で返すのは、香菜子には到底難しいことだった。
「なによ、別に聞いただけじゃない」
母は拗ねたような表情を見せて、気まずさも感じていない。
「お母さん、突然すぎる」
「お母さんは前から思ってましたー。離婚するって言い出したときに、もう次のいい人がいるのかなーって」
「あのね、離婚理由はそれじゃないんだって」
2年前、夫と離婚の話し合いが始まった。半年間、子どもの養育や財産分配、転居の手配と諸々の手続きについて確認し合って、昨年、やっとの思いで全て完了して離婚届を役所に出すことができた。娘との生活が軌道にのって安定してきたことで、離婚に対する後悔や娘への申し訳なさを消化しつつあるところだった。
「離婚の話をしたときに、ちゃんと理由も話したでしょ?」
「聞きましたよ?昭人さんが求めるものと貴女の求めるものが違って、一緒にいるのがしんどくなったんでしょ。わかってます。」
別れた夫、松本昭人は香菜子が事務員として勤めていた自動車整備工場の整備士で、仕事に真面目で実直。不器用さはあるが、人当たりもよく面倒見のいい男だった。香菜子より2歳年上ではあったが、友達のように接してくれる昭人に香菜子が惹かれ、積極的にアプローチして付き合いが始まった。
「昭人さんのどこがダメだったのかねぇ」
「お母さん、何度も言ってるでしょ。彼がダメだったんじゃなくて、私のわがままって」
「そんなわがままに育てた覚えはないのよねー」
頬杖をついて右を向きながら、もの言いたげな表情の母を見ると、これも離婚の代償かとため息がもれた。
浮気の心配など一度もすることなく、言葉は多くなかったが、大切にされていると感じながら過ごす昭人との日々に、これが幸せなのだと信じて疑いようもなかった。だから、昭人からのプロポーズも嬉しくて飛び上がりそうなほどだった。結婚して3年目には娘を授かり、絵に描いたような幸福な家庭が完成した。子どもを育てながら、一度中断していた仕事を再開した。就職活動をしながら家庭を両立するのは当然大変で、心も身体も疲れてしまう日もあったが、昭人は夕飯が惣菜の日も文句ひとつ言わず笑って許してくれる夫だった。再就職が決まって、仕事と家庭の両立に目まぐるしく日々は過ぎていった。このまま、平穏な家庭生活が継続すると、香菜子自身も思っていたはずだった。
結婚11年目を過ぎたある日、香菜子はふと思ってしまった。昭人にとっては、娘の母親であると同時に妻であると認識されている自分。結婚当初から頻度は減ったものの、昭人から夜の営みに誘われることは続いていた。口下手な男だが、香菜子が家のことを全て片付けて落ち着いた頃を見計らって「今日、いい?」と聞いてくる。このとき大抵の場合、香菜子は一日中活動し尽くしたあとの疲労を抱えていた。朝、早くに出勤する昭人は子どもが起きてから学校に出かけるまでの状況を知らない。香菜子が仕事を終えて帰宅してから、家事を組み立て、子どもと食事をとり、学校連絡を確認して、入浴を促すまでの間に帰宅することも滅多いない。所謂、ワンオペ状態である。子どもの就寝前に帰宅して、「ごめんね、ありがとう」と香菜子に言葉をかけながら、用意されている夕飯を温めて食べた後、寝付くまで子どもの相手を昭人に委ね、残りの家事がやっと全て片付けられる。そこに昭人から夫婦の時間を求められることに、いつしか負担を感じるようになった。母親の時間が終わったと同時に、次は昭人に妻としての役割を求められると思ってしまうのだ。そんな日々の中、昭人のことを大切な存在と思いながらも、夫の相手をしなければいけない義務感が強くなり、気持ちが閉じていくのを感じていた。何が悪いわけでもない。不満があるわけでもない。決して子育てに非協力的なこともない。それでも、言いようのないモヤモヤしたものが溜まっていって、ある日限界を迎えてしまった。
「ごめん、別れてほしい」
香菜子が離婚を切り出した時の昭人は驚いていた。当然だ。彼に何か非があるわけではないのだから。
「は?何?どうして?」
「ちょっと疲れちゃって」
「仕事?やめてもいいよ?俺の所得だけで不安なら、実家に言えば工面してくれるし」
「いや、そいうことじゃなくて」
「じゃあ何?離婚したいほどの理由があるんだろ?」
「ごめん、私のわがまま」
「わがままって…」
「妻でいることに疲れてしまったの」
話し合いには当然時間がかかったが、それでも折れない香菜子に、最後の優しさと言わんばかりに離婚を受け入れてくれた。
「気持ちは変わらないんだな?」
「うん、ごめん」
「謝らなくていいよ、わかったから」
昭人は涙脆く、香菜子より先に泣くことも少なくない。話し合いの中で、何度も彼が涙することがあった。その度に思う。(先に泣かれると泣けなくなるのよね)
きっとそんな小さな違和感や些細なことが積み重なったのだと今は思う。
「今日は何時まで1人で過ごすの?」
「夕飯食べてくるって言ってたから、夜の8時くらいかなぁ」
「昭人さん、ご飯作ってくれるの?」
「いや、あの人、ご飯作れないから」
「あーそうなの?じゃあここで食べればいいじゃない」
「ねぇお母さん、今日は昭人が子供と過ごす日で、私は束の間の休みなの」
「お母さんはアンタ達を育ててる時に休んだことなかったのに〜いいわねぇ」
「あら、それは勿体無いことしてたねー」
「お父さんも何にもしない人だったのに〜」
「知ってるよ。でも、昼間に私たちが外に出てる時間、そこそこ気ぃ抜いてたでしょ?」
「専業主婦だって忙しいんです〜」
「知ってるよ。私も専業主婦の時期はありました〜」
母と話す時は何故かいつもこんなテンポになるのに、昭人とはいつの頃からか何気ない話をすることも減っていたと今更ながら思い出した。
コミニュケーション不足と言ってしまえばそれまでなのだけど。
母の小言なのか文句なのか分からない言葉を受け止めつつ、手元の家事を進めているとスマホが鳴った。
『斉藤くん』
会社の後輩からだった。
今が繁忙期とは言え、土曜日の午前中に連絡するような仕事はなかったはず、と疑問に思ったがスマホを手に取った。
「お疲れ様です!斉藤です」
「うん、どうしたの?」
「あ、休みの日にすみません」
「休日出勤してる?昨日、何か残してた急ぎの案件あった?」
真っ先に後輩でもあり、香菜子がチーフを務める部署のメンバーである彼が仕事を残してるかもしれない事が頭をよぎった。
「いや、あの…」
「どうかした?」
「すみません、お休みの日に」
「うん、なんだった?」
香菜子は言葉の続かない斉藤の様子が気になり出した。
「仕事の案件ではないんですが、午後、お時間あったらでいいんですけど…会えませんか?」
「え?」
「えっと…ですね、あ、相談。相談したいことがありまして」
香菜子の反応を確認しているような言葉選びは、仕事中に見せる論理的で整然と話す斉藤とは思えない話し方だった。
「月曜日に会社で聞くよ?」
斉藤との関係性から考えて、プライベートな相談をしてくることは考えにくい。
「会社ではちょっと…私的な相談なんで」
「それは私で大丈夫なこと?部長とか人事に繋ごうか?」
「あ、いや、あの神谷さんに…相談というか」
なんとも歯切れの悪い言い方に少し心配になってきていた香菜子ではあったが、今の時代、部下といえど異性の社員と社外で個別で会うのはリスクがある。
「んーもし、急がないならだけど、とりあえず月曜日の朝イチで会議室押さえるから、そこで話さない?」
「あ、そうですよね。すみません。」
「いいえ、こちらこそごめんね」
「では、また月曜日に。失礼します」
電話を終えて、一体何だったのかと首を傾げると
「ほーら、やっぱり居るんじゃない」
母から見当違いの言葉が飛んできた。
「違うって。部下からの相談だよ」
「休みの日に?わざわざ?」
「まぁ…それはちょっと疑問だけど」
ふーんと気のない相槌を打って母はコーヒーを口に運んだ。
離婚理由を自分のわがままと言い張る娘は、母親の贔屓目には年齢より若く見える。社会復帰して見聞が広がったことで、夫以外の人に目が向いてしまうのかもしれないとカマをかけてみたが、そういう事ではないと否定されてしまった。香菜子が産まれてから専業主婦を貫く私とは考え方も相容れない事が多い。それでも、娘は娘。心配ではある。そんな事は本人も分かってくれているだろうから敢えては口にしないが、もう少し説明があってもいいのでは?とも思う。
「なに?お母さん」
じっと見ていたら睨まれたと思ったのか、怪訝な表情で言われてしまった。
「なんでもないですよ。娘を観察してるだけ」
「何それ。穴が開くかもしれないからやめて」
「こんなので穴が開くなら、もうとっくにあなたは穴ボコだらけだわよ」
「あらそう?昔の穴が塞がっただけかもよ?」
なんとも訳の分からない会話だ。実家にいた頃の母娘の会話は、常にこの調子だったと懐かしくなった。
「香菜子、1人で大変なら出戻っていいからね」
思ってもいなかったと言わんばかりに娘は驚いていたが、返事は何とも言えない答えだった。
しばらく居座った母親は、孫に会うことを諦めて帰って行った。香菜子がスマホを手に取ると、タイミングよく斉藤からメッセージが送られてきた。
『先ほどはすみません。相談の件はお気になさらずです』
香菜子は既読をつけただけで返信はしなかった。




