桜
これは私の知人、Mさんが大学生の頃に体験した話です。
Mさんは都内の大学に通っていましたが、ある春の夜、サークルの飲み会の帰り道に、少し酔い覚ましをしようと近所の大きな公園に立ち寄りました。
そこは桜の名所として知られていましたが、平日の深夜ということもあり、人影は全くありませんでした。
満開の桜が街灯に照らされ、まるで昼間のような明るさだったそうです。
Mさんは、ふと一本の大きなソメイヨシノの前に足が止まりました。
「綺麗だな」
そう思った瞬間でした。
風もないのに、どっと花びらが舞い落ち、視界が真っ白に染まりました。
ふと気づくと、周囲の音が完全に消えていました。
遠くを走る車の騒音も、木々のざわめきも、自分の足音さえも。
Mさんは怖くなり、公園の出口に向かって歩き出しました。
ところが、歩いても歩いても出口が見えません。
いつもなら数分で通り抜けられるはずの広場が、どこまで行っても桜、桜、桜。
(おかしい。さっきから同じ場所を回っているんじゃないか?)
焦ったMさんの目に、あるものが飛び込んできました。
一本の低い枝に、見覚えのあるキーホルダーがぶら下がっているのです。
それは、さっきまで自分のバッグについていたはずのものでした。
「いつの間に……」
震える手でそれを取ろうとした、その時。
背後から「くすっ」と、笑い声が聞こえました。
反射的に振り返ると、外灯の下に、スーツ姿の男がうずくまっています。
声をかけようと近づきかけたMさんは、その異様な光景に足を止めました。
男は表情を失ったまま、地面に積もった花びらを両手ですくい上げ、
口に運んでいたのです。指先で掻き集め、押し込んだその口元から、
さらに多くの花弁が、ぶわりと外へ溢れ出ていました。
まるで、喉の奥からせり上がる花びらを、必死で押し戻そうとするかのように。
Mさんは悲鳴も上げず、無我夢中で反対方向へ走り続けました。
どれくらい走ったか分かりませんが、急に視界が暗くなり、パッと
周囲の音が戻ってきました。
気づけば、自分は公園の入り口にある車止めの前に立っていました。
慌てて時計を見ると、公園に入ってから3時間以上も経過していました。
本人にとっては、ものの15分程度の出来事だったといいます。
後日、Mさんはその公園を訪れましたが、男性がいたはずの場所には、
それらしい木も、その形跡も全くなかったそうです。




