プロローグ 生誕戦争1
男の眼下には広大な草原が広がっている。
「いよいよ決戦だな。皆覚悟は出来ている。卿に……お前に全てを託す」
遥か遠くの空を見ながら、英雄王テネルが男の隣で呟いた。
「なんか辛気臭いなあ。もっとこう、和気藹々といこうじゃないの」
「ヴァイクは現実を見なさいよ。あんたが奇術士連盟の長だとは今でも思えないわ」
「はいはい、ハイエルフの巫女様」
くっくっくっと喉の奥を鳴らし首をすくめたヴァイカルトは、使い古した灰色のローブを風に遊ばせばながら、巫女と呼ばれたハイエルフに笑みを寄越した。
「そう言ってくれるな、アリッタ。ヴァイカルトのお気楽さには皆が助けられている」
「テネルはヴァイクに甘いのよ。あれを見てそう言ってられる?」
アリッタが細く白い腕をテネルの視線の先に伸ばした。
「ねえ、ジーザ。あなたも何とか言って。笑っていられる余裕なんかある?」
「いや……ないな。正直俺でも震えが止まらない」
英雄王の視線とハイエルフ巫女の指す空は一部分が黒かった。つい先刻までは小さな黒い点であったはずが、少し時間が経過しただけで明らかに大きな黒になっていた。それは刻々と大きくなっており、今ではその黒が何なのか目視できるほどになっている。
「異形の怪物たちだね。あ、今では邪神って呼ぶんだっけ」
「ああ。俺が名付けたんだったな」
鷹揚さを隠さずに邪神と呼んだヴァイカルトを見ずにジーザは首肯した。ふと隣を見ると、邪神を睨みながらアリッタが震えていた。ジーザの視線に気づきそっと腕を絡ませてきたアリッタにだけ聞こえるように呟く。
「大丈夫さ。なんとかなる」
「ええ。怖い。怖いけど……ジーザを信じる」
「おい、二人とも続きは戦いの後に取っておけ」
テネルの小言に顔を赤くしたアリッタの腕をそっと離したジーザは、ひとつ咳払いをし、足元を見た。
今四人は防壁の上に立っている。後ろには王都が控えており、前には広大な草原が地平線まで続いている。そして、その草原の半ばまでが人で埋まっていた。正しくは人族以外もおり、数としてはそちらの方が多かった。
エルフ、ドワーフ、獣人と呼ばれる者たち、中にはケンタウロスやホビット族もいる。
亜人連合軍と呼ばれる者たちだった。
「さすがに壮観だね。結局どれぐらい集まったの?」
「おおよそ三十万てところだな。正直もっと集まると思ったが」
「それでもすごい数だと思うけどね。普通の戦争だと戦力分散するから、こうも一堂に会することなんかありえないよ。そこは大丈夫なの?」
奇術師連盟の会長であるヴァイカルトの疑問は尤もだった。しかし、邪神から聞かされた言葉……というか念話を信じるならば、戦力分散は愚案だった。
数か月前の邂逅当初、この異形の怪物たち――邪神――からこの城塞都市を名指しで落とすと言われたのだ。この世界で最も大きく堅牢であり、人口も多い巨大国家シュティヒンバーグ王国の中枢であるこの王都が落とされれば、撃退する戦力は滅多に姿を表さない竜族を除いてこの世界には無いと言ってよかった。つまり邪神群は初手でこの世界の最大戦力を打ち破る算段なのだろう。
だからテネルは敢えてこの場所に全勢力を集めたのだ。
「やるしかない。だよな? ジーザ。いや、救世主殿」
テネルはこの場で初めて歯をこぼした。
その瞬間、頭上から体の芯まで震えてしまうような声が響き、突風が辺りを舞った。
「我らがいる。問題あるまい」
ジーザたちが見上げると、翼を広げて悠然と頭上を旋回している影がいくつもあった。その数は数百はいるだろうか。
「おお、バルザダス殿、来てくださったか」
「すまぬ人族の王よ。同胞を説得するのに時間がかかってしまった」
「いや、間に合ったのだから何も言わん。感謝する」
ひと際大きな巨体がゆっくりと羽ばたかせながら近づいてくると、目の前の草原から悲鳴と歓声が上がった。
「りゅ、竜族だ! あの漆黒の巨竜は竜王バルザダスだ!」
「眷属を率いて来てくださったのだ! これであの邪神共も恐れることはない!」
「本当に竜族が亜人連合の味方をしてくれるのか? あの誇り高き竜族が……」
黒き竜バルザダスにひとつ頷いたテネルは、再び前面に向き直り、手を上げた。
「ヴァイカルト、頼む」
「あいよ! 頼まれた」
眼光を鋭くしたテネルとは対照的に笑みを浮かべたヴァイカルトが、両手を草原に向けて差出し、一言「よっ」と言った。
瞬間的に空気が震え、見えない力のうねりが波紋のように伝播していき、あっという間に亜人連合の先端まで届いた。
「拡声準備できた。テネル、いいよ」
大きく息を吸い込み、草原に広がる三十万の亜人連合に向けてテネルは声を上げた。
「皆、よく集まってくれた。いよいよ時は来たのだ。あの空を見よ! 先ほどまで点だった黒がもうそこまで来ている。卿らも知っての通り、邪神どもだ。我ら人族、そして亜人の同胞、さらにはこの世界の頂点に君臨する竜族までもが奴らの手にかかった。言うまでもなく、これは侵略である! 我らの生活を脅かす脅威だ! それらから美しいこの世界を守るため、皆が手を取り合った! これを友情と言わずして何と言う! 友よ、兄弟よ、我らの誇りを護る為、忌まわしきあの邪神共を塵芥に変えて見せよう! 恐れることはない! 亜人連合には我らがいる! シュティヒンバーグ国王である私、テネル・ディ・シュティヒンバーグ、ハイエルフの巫女にして精霊王の召喚者アリッタ、世界の知識を操る大奇術師ヴァイカルト、漆黒の竜王バルザダス、そして我らの救世主ジーザ! 何より! 皆がいる! 負けるわけがない! 奴らに、我らの強さを思い知らせてやるのだ!!」
テネルが腰から七色に輝く剣を抜き高々と空へ掲げると、草原を揺らすほどの歓声があがり、亜人連合の鬨の声になった。
「えらく芝居がかっているな、テネル」
「そうでもしないと皆の恐怖を拭えないからな。事実、奴らは少なく見積もっても百万はいる。ヴァイカルト配下の解析班からの報告だ。相違はあるまい。正直なところな、ジーザ。お前がいなければ俺も逃げていたよ」
剣を鞘にしまい、連合軍を見ながらテネルはふっ、と息を零した。
テネルがそんな男ではないことはジーザは知っている。そう言って笑うテネルなりの配慮なのだろう。戦力差は事実なのだと思う。単純な戦力差は三倍以上、さらに邪神は小さな個体一体でも小型の竜程度ならば屠れる力を持っている。人間などひとたまりもない。客観視するならば絶望的な戦いなのだ。
しかし、ここにいる誰もが英雄王と呼ばれるテネルに同意するだろう。
「当り前よ。ジーザがいて負けるわけないじゃない。ついでにバルちゃんもいるんだし」
アリッタはバルザダスを一瞥し、ジーザの手を柔らかく握ってきた。取り繕ってそう言うものの、手のひらは汗ばんでいる。幾分和らいだと思うが、それでも緊張は隠せていないようだ。
「はっはっは! エルフの小娘よ、我をついで扱いか。さすがは老竜王たる我を一撃で伏せさせた男が認める女よ!」
「爺さんなのにお耳がいいことね」
バルザダスを探すとすでに上空に飛んでおり、ジーザたちを笑うかのように周回を始めていた。
「さあ、そろそろ始めるか」
テネルが三人に目くばせをし、事前の作戦を再確認をする。
「まずはヴァイカルト班、お前たちのどでかい奇術で先手を取る。できる限り数を減らしてくれ」
「あいよー」
「遠距離はヴァイカルトに任せて、中距離はアリッタ、君とハイエルフたちだ」
「任せて」
「精霊王様たちには?」
「事前に了承してもらったわ。かなりあいつらに怒っていたみたいだから暴れてくれると思う」
「なら大丈夫だろうな。討ち漏らした奴らは竜族が相手になる。それでも地上に来た場合は亜人連合に相手をしてもらう。そして――」
三人の視線がジーザに集まる。
「ジーザ、お前には無理を言ってしまうが……」
「ああ。任せろ。俺にしかできないからな。それに」
三人を順に見ていき、最後のアリッタで視線を固めた。
「みんなを、守りたいから」
アリッタもその視線を受け止め、大きく頷いた。
「ジーザ、必ず――」
その言葉が終わる前にジーザは草原の向こうに視線を変え、ああ、必ず守る、と黒い空に向けて呟いた。
邪神群はその形を表し始め、空一面を覆うほどの黒い壁が煙を立ち昇らせながらこちらに向かっているようだった。もし世界の終わりがあるならば、これほど非現実的な暴力の嵐が近づいているこの様子こそ当てはまるのではないかと誰もが思うだろう。
そして、いよいよ戦いが始まった。
先陣を切ったのはヴァイカルト及び配下の奇術隊である。
「「「星落とし!!」」」
星落としと呼ばれる奇術をこの世界の精鋭奇術師百人で同時に行い、それを補助する奇術士数百人が、落下する岩や石に硬化を付与し、落下速度を増加させていく作戦だった。相手にしてみたらまさに地獄であろう。頭上から鉱物よりも硬い大小数十万の岩が炎を纏って降り注ぐ様は天変地異の様相である。
草原の遥か先には海がある。巨大な水柱がいくつも立ち上がり、その海面に落ちる邪神がいくつも目視できた。逆を言えば、遥か先なのに目視できるほど、邪神が巨大なのだ。
それでも巨大な岩の直撃を受け、邪神は次々に落ちていった。
空を破って近付いてくる黒い群れの頭上に降り注ぐ数えきれないほどの赤い岩の中には、小山ほどの大きさもいくつかあった。それはたった一つで数百の邪神を一瞬にして粉砕していった。
奇術士たちはそれを確認することもなく、次々と岩を降らせる。
「す、すごい。これだけで決着が付くんじゃ……」
口をぽかんと開けたアリッタに向かってヴァイカルトが珍しく剣呑な顔を作った。
「いや、無理だ。見えているのはまだほんの一部。本隊はまだ見えてもいない。一割ぐらいしか削って無いと思うよ? それに、僕たちの精神力もすぐに底をつく」
ヴァイカルトの額には大粒の汗が光り、前に掲げた両手は小刻みに震えている。
眼下に控えている千人近い奇術士たちも、次々と地面に突っ伏しはじめた。
あれだけの質量を持つ岩を天空から強引に引っ張り落とす超々高等奇術である。ましてヴァイカルトは中でも群を抜いて大きな岩の塊を次々に落としているのだ。その疲労たるや想像にも及ばないだろう。
いよいよヴァイカルトが肩で息をするようになる頃、艶やかな笑みを残してアリッタが、とんっ、と欄干に登り、「行ってくるね」と一言だけ残して飛翔した。すでに風の下位精霊を纏っているようだ。一度振り返りジーザをその眼に認めると、再び前方へ跳んでいった。
「奇術隊は防壁内へ! 少しでも休め! 次!」
テネルの号令により奇術隊が軽装の騎士に抱えられながら防壁内に入る。入れ替わるようにハイエルフたちが次々と飛翔し、すぐさま連合軍の先頭まで躍り出た。そして流れるような動きで隊列を組む。洗練された騎士団のように無駄がない動きで渡り鳥の編列の如く形どられ、空中にいるアリッタを頂に幾重にも作られていった。その配列が落ち着いたころ、ハイエルフたちは一斉に歌い出した。
エルフ以外にはおおよそ聞き取れない甘美な斉唱は次第に甲高くなり、いよいよ自然現象の主とも言うべき存在が中空に顕現し始めた。
おとぎ話に出てくるような淡く青い女性らしき形をしたそれらは、巨躯である竜族すらも上回る大きさで空中を漂い、エルフたちの歌とともにその超常現象を巻き起こさんと発光を始め、次第に光の密度を濃くしていく。
精霊たちの姿がはっきりと色付いた頃、邪神も雨のように降り注ぐ岩を掻い潜り、いよいよ陸地付近まできていた。
数十万の隕石により邪神もかなりの数を減らしたようだったが、彼方より絶え間なく現れる数の方が圧倒的に多く、ヴァイカルトの読み通り大打撃を与えるまではいっていないようだった。
地上で控えている亜人連合軍はこの瞬間、絶望と蹂躙の予感を抱いた。
このあと、いくら召喚された精霊たちがその超常たる自然現象を巻き起こすとは言え、この世界での圧倒的強者である竜族がその牙を剥くとは言え、果たしてあの数の暴力に勝てるのか。先の隕石群による攻撃をもってしてもさしたる痛手を与えていない事実だけで、その疑念をより確かなものにするには十分すぎるほどだった。
エルフたちの歌が止み、次々と顕現された精霊王やその従属上位精霊たちが、その力を奮い出した。
邪神の上空に分厚い雨雲がひろがり、すぐさま世界が灰色に満ちた。雨雲の内部から漏れた光はやがて縦横無尽の極太の雷に変わり、邪神を次々と炭の塊にし無力化していく。
アリッタの召喚した巨大な精霊王は風を操る。邪神の目の前で極大な竜巻を数百と作り、仇と見なす邪神共を切り刻んで飛行能力を奪い、海に沈めていった。
また竜巻により巻き上げられた海水が勢いよく天に昇り、星落としとは逆に下からの攻撃を受け、次々と飛ばされていく。
精霊王たちの攻撃は熾烈を極めた。
星落としよりも知能的で統制力を持ち、ひたすら対象物に対してのみその暴力性を訴える。超常たる自然現象を集約した無慈悲で破滅的な攻撃だった。精霊たちが邪神群に立ちふさがるように青白い姿を踊らせ次々と邪神を葬る様子は、絶望が顔を覗かせた亜人連合の士気を再び蘇らせるには十二分だと思えた。
意思を持つ破壊活動は功を奏したようで、明らかに隕石群による攻撃よりも多い数の邪神を海の藻屑へと変えていく。
それでも迫りくる全てを破壊することは適わなかった。
次々と精霊たちの攻撃を掻い潜ってきた邪神はついにその秘めたる異次元の殺意をむき出しにしてきた。前方から人外の呻き声のようなものが響いてくる。
それに相対するは老竜王バルザダス率いる竜族である。
上空で旋回していたこの世界の強大な暴力者は、次々と邪神の方へ羽ばたいていった。
同族を大義なく殺された恨みか、世界の上位者としての矜恃か、はたまたただの敵愾心なのか、それは竜族でないと分かるまい。しかしながら、竜族は小手調べをするつもりはないようである。端から全力飛行し、火炎息を吐くつもりなのか、口の端からはその炎が漏れている。
そしてついに衝突した。
ある竜はそのまま邪神に噛みつき、強靭な顎を固定したまま首や翼を前後左右に大きく動かした。ある竜はその口から吐き出される灼熱の炎をこれみよがしに見舞う。ある竜は飛行速度を落とさず、鋼よりも硬い双爪で邪神を切り裂いていった。
今先陣を切っているのは数百の成竜であった。その後に成竜より一回り大きい老竜が続き、牙で、爪で、炎で、時には尾で邪神を破滅させていった。
その圧倒的戦闘力は精霊たちにも匹敵するほどで、邪神の残骸のみがゆっくり地に落ちていくのだった。そのさらに前方では変わらず精霊たちの苛烈な攻撃が続いており、抜けてきた邪神もその姿を竜にさらした瞬間に次々と絶命していった。
開戦直後は圧倒的に亜人連合軍側が有利だった。星落としにより邪神の出鼻を挫き、精霊と竜族により、戦線を下げることなく邪神の数を減らしていく。
趨勢が決したかのような展開に亜人連合から歓喜の声が方々から聞こえ、握手をする者までいた。
しかし、それが尚早だと気付くまでそう時間は掛からなかった。
湧き出る邪神を圧倒する精霊たちの姿から色が少しづつ消え、雲が去り、風が凪ぎ始めてきたのだ。波は穏やかになり、竜巻が完全に消え去ると同時に、先頭で陣頭指揮を執っていたアリッタは地に落ちていった。
精霊を召喚し使役するには己の精神力を引き換えにしなければならない。精霊王召喚ともなれば自身の存在すら書き消そうとする暴風に精神でも打ち勝たなくてはいけないからだ。
上位精霊も並みのエルフでは抑えが聞かず、その精霊の暴走を許すことになる。そうならないためにも、長い年月を精神の鍛練と精霊との同調に費やさなければならない。それが可能なのが、齢数百歳以上の中でも精霊の扱いに長けた、エルフ族の中でもほんの一握りのハイエルフと呼ばれる彼らだけだ。
最前線の空中に陣取ったアリッタからは、後方にいる他のハイエルフの様子は分からない。しかし、彼女が召喚した精霊王以外の姿が確認できないということは、そういうことなのであろう。すでに精神力が限界を超えたのだと。
頭から地上に落下しながら、アリッタはジーザの手の温もりを必死に思い出そうとしていた。記憶の糸を手繰りながら細い腕を空中に伸ばし、そのまま意識を手放した。
その様子をいち早く察知したバルザダスは目の前にいた邪神の一体を食いちぎり、力尽きたハイエルフ巫女に向かい加速した。
それを許すまいとバルザダスと同等の巨躯を誇る邪神が進路に入る。
「邪魔だ!!」
王者の咆哮が空圧となって巨大な邪神にぶつかる。しかしその空圧に半身を削られながらも、巨大な邪神はバルザダスに体当たりを食わらせた。さらに同大の邪神が二つ、バルザダスに体当たりを食らわし、左右の翼に異形な牙を立てバルザダスの動きを止めた。
「邪魔だと言うのが分からんのか虫けらどもめ!!!」
バルザダスは大地が揺れんばかりの咆哮を吐きながらその体躯を動かし、食いついた邪神を振り払おうと藻掻く。しかし藻掻けば藻掻くほど、両翼の根本に食い込んだ牙が深く刺さり、身体の自由を奪っていく。これはバルザダスにとって思わぬ体力の消費であり、もはや猶予がないほどの致命傷に変わろうとしていた。
業を煮やした黒竜は怒りの咆哮と共に、口から灼熱の炎を吐き出した。それは半身となった邪神と左翼に食いついた邪神の二体を瞬く間に消し炭にし、自身の左の翼と共に塵に変えた。
「ちっ、虫けらどもめ。すまぬ……エルフの女よ」
そうして最強の巨竜も右翼に絡まる邪神と共に地に落ちていった。
精霊たちが完全にいなくなり、ハイエルフの召喚士たちが全員地に付していた。そして、竜族の大半も力尽きていた。
百はいた老竜も飛んでいるのはもう十ほどで、五百いた成竜も百ほどまでに数を減らしている。まだ老竜の半分ほどの大きさしかない幼竜も僅かしか残っていない。しかも残っている竜族はみな身体から少なくない血を流している。
意気揚々と鼓舞するかのような咆哮が消え、痛みを訴える断末魔のような弱々しい遠吠えが上空のいたるところで聞こえるようになり、亜人連合の顔からも笑みが消えた。
地上部隊が無言でめいめいに得物を構え、巨大生物用の大型弩砲を事務的に、機械的に、ただ上方に向ける。
誰の目にも希望は無かった。口を開く者も誰もいなくなった。この弩砲ですらあの邪神共には効かないだろうということと、目の前の現実が蹂躙の始まりだということを理解するだけで思考が停止してしまっていたのだった。
得物を捨て逃げ出す者を叱責する声もない。
闘いが好きなドワーフですら、その手に持つハルバードが震えていた。
世界最強と謳われた王国騎士団の駿馬も嘶きを忘れている。
数十万の隕石をものともせず、精霊王の力すら及ばず、最強の竜族ですら瓦解寸前の今、矮小な亜人連合に何が出来るのか。
疑いは決して覚悟には変化しない。
誰もが希望の灯火を捨てようとした時、大地を震わす声が響いた。
「親愛なる友、兄弟よ! まだ希望を捨てるには早い! まだ絶望は襲ってはきていない! 星落としが止み、精霊たちが眠り、竜族は翼を無くそうとしている。しかし、我らはまだ戦える! まだ希望は残っている! 後ろを見るな、勇者の諸氏よ! そのバリスタを忌まわしい邪神共にぶつけるのだ!」
テネルの拡大された声は、小さく、しかしながら決して消えない希望の灯火となり、亜人連合の心を若干ではあるが滾らせた。これこそがテネルの持つ最大にして最強の武器なのである。どのような局面でもその声に言霊を乗せ、彷徨う者たちの精神を導く。折れた心を繋ぎ止め、消えた灯に再び火をともす。まさしく王たる資質であった。
その時、同じく拡声された術式が草原に響き渡った。
「星落とし!!」
戦いの狼煙でもあった星落としである。それも、声の主は紛うことなく、あの天才奇術士のヴァイカルトのそれであった。
「テネル、法薬助かったよ。これでまた少し頑張れる」
「ヴァイカルト、無理させて済まない」
「いいよいいよ。無理なんて今回限りだし、僕の拡声した術式が聞こえれば少しは元気出ると思うしね」
そう言い、稀代の奇術士はくっくっくっ、っと喉を鳴らした。
「だけど邪神はさっきみたいに固まってないから、星落としより広域爆発にした方がいいかも。テネルはみなにバリスタの号令をおねがい」
「分かった。ジーザの準備ももう終わる」
その時、ヴァイカルト配下の術師らしき人間が二人の前に現れ、息を整えながら片膝を付いた。
「シュティヒンバーグ王、ヴァイカルト導師、ご報告です」
その声を聞いたヴァイカルトはすぐさま星落としの術を解き、「動ける術師は広域爆発術にて戦線を維持して! バリスタはまだだよ!」と拡声術で指示を出した。
「維持できるか」
「ああ。たぶんね。この子は解析班さ。君が来たということは……」
「はい。敵、邪神の進行速度が低下し、後方に待機している邪神の動きが止まりました。こちらに向かって動いている数はおよそ十万。それ以外の動きは無い模様です」
解析班兼伝令の奇術師は滝のような汗を流している。この場に馳せ参じるために走っただけではこうはなるまい。開戦前からずっと感知の術で邪神の動きを捉えていたのであろうことは二人から見ても容易だった。
「ああ、ありがとう。で、向こうにはあとどれぐらいいるのかな」
「はい。おおよそですが、六十万ぐらいかと」
「やはり多いな。接敵している邪神を併せたら七十万か。当初はこの星落としと精霊、そして竜たちで半分近くは落とせる算段だった」
剣の柄を強く握りしめるテネルの表情は固い。今にも愛馬に乗って駈け出さんとしそうである。
「まあ、よくやったほうだよ。それに僕らにはまだ切り札があるしね」
ヴァイカルトとテネルは同時に防壁内の王都を振り返った。
「ジーザ……本当にすまないが、あともう少しだけ辛抱してくれ」
テネルが唇をきつく噛んだ。ヴァイカルトも寂しげな視線を後方に送り続けている。
すると草原の方から何かが爆発するような轟音が響いてきた。それも尋常ではない数である。
法薬により回復した奇術隊の放つ、広域爆発術だった。
先ほどは作用付与を行っていた者も今度は爆発術行使に加わり、邪神の上方辺りに絶え間ない超爆発を起こし始めていた。
それを見たテネルが大きく息を吸い込む。
「勇士たちよ、今だ! 高度を下げた邪神に向けバリスタを放て!!!」
轟音よりもひと際大きな声で、草原に陣取る亜人連合に向けて号令を下した。
「邪神に刺さったら十人以上で弩から伸びているその蔦を引っ張るんだ! 落とさずとも動きを遅くさせればよい。その蔦はエルフが編み込んだ特製の縄になっている。そう簡単には千切れない! 残っているエルフ諸氏よ! 邪神が釣れたらそなたらの番だ!!」
四人の考えた作戦は簡単なものだった。
星落とし・精霊・竜の攻撃が終わり、みなが陣取る草原に邪神が迫ったら、奇術師により邪神群上部に爆発術を放ち、高度を下げさせる。その後縄が仕込まれているバリスタを邪神に向けて撃ち、さらに高度の下がったのを確認後、残った若いエルフにより草の下位精霊を使役し、絡ませ地に落とす。そこを亜人連合が叩く作戦だった。
邪神の飛行速度は決して遅くはないが、馬よりかは遅い。狙いを付けたバリスタは次々と小型の邪神に刺さり、徐々に高度を下げていく。エルフの呼ぶ精霊がさらに邪神の異形な身体に纏わりつくように伸び、飛行能力を奪っていく。地に落ちた邪神に次々と剣が刺さっていった。
しかし強引に上昇する邪神に引っ張られ、数十名が上空に投げ出されたり、伸びた草を引きちぎろうとする邪神の抵抗も多かった。群がる亜人が一度に数名、落とされた邪神の下敷きになるものもおり、次第にその様相は乱戦になりつつあった。
小さな個体でも邪神は非常に強固である。草の精霊により機動力を欠かなければ亜人たちでは到底討ち取れない。
しかし、亜人連合は総勢三十万である。邪神も十万はいるとはいえ、一度にそのすべてが襲ってくるわけではないのだ。より効率よく、こちらの被害を最小限に、逆に邪神には確実な深手を追わせれば光明は見えてくるのだ。
まだ存在する大型の邪神は、引き続き生き残った竜族が相手をしている。無理に突っ込まず、距離を置いて火炎での攻撃を主とし、致命傷を与えらると判断した時のみ、その鋭い牙と爪を使う作戦にしたようだった。
方々で邪神と肉薄する者たちが増え、戦線は膠着しつつあった。
もしかしたらそこまで経過はしていないのかも知れない。しかし刻々と流れる時間の経過が、いつもより遅く感じたのは一人二人ではないだろう。
今まで経験したことのないような緊張と絶望感、王の激励により身体は動くもののいざ邪神を目の前にした時の恐怖と、この場から逃げ去りたい感情を抑え、同胞と死を共感せざるを得ない邪悪な匂いが充満するこの地では、正常な時間感覚は誰一人として持ち合わせていなかった。
膂力逞しい獣人や、小さいながらも極厚の筋肉で覆われたドワーフ、重金属鎧を着込み、巨馬を操る最強の騎士団が上空へ投げ出された。
俊敏さでは並ぶ者のいないエルフも逃げ遅れ、邪神に踏みつぶされた。四肢が折れたケンタウロスの悲痛なうめき声が静かに漏れる。
その横で凶悪な邪神の牙に掛かる人族数名が身体を半分に切断されていた。
まさに地獄絵図であった。
それでも、どこからか指揮する声に伴ったバリスタが撃たれ、エルフの歌声が響き、強者の咆哮が邪神にぶつかっていく。
遠くでは未だに鬨の声が聞こえ、上空では爆発音が散発的に響いていた。




