冷たい口付け
深夜の闇に包まれて、下限の月だけがわずかな光を照らしていた。
窓から差し込んでくる光を、男は背中に浴びて手にしていたそれをなにも感じないと言うように、無言のままにじっと見下ろした。
がっちりと押さえつけたそれは、はなから抵抗はしないというようにだらりと力なくぶら下がり、男はそれを見下ろしたまま、ゆっくりと指先に力を加えた。
両手に収めたそれを思い切り締め上げた。
両の親指に伝う硬い骨の感触がぎしりと軋む。
苦しげにその咽喉が空気を細く吸い込んだ。
それを許さないと言わんばかりに、さらに締め上げた。
ぱき。
軋んで歪んだ骨は、悲鳴を上げる。
細く咽喉を通ろうとしていた空気は、締め上げたために道をふさがれて、逆流しては返ってくる。
苦しげに歪んだその眉に、ふと思わず手を緩めそうになってしまうがしかし、指は己の知らぬところでさらに力を加え続けた。容赦せぬ力で、首を絞めていた。
底冷えのした古い感情だけが身体をめぐった。
人肌に感じていた体温がゆるゆると下がっていく。
苦しげに寄せられていた眉がふいに解かれた瞬間に、男の指先からふと力が抜けた。
どさり。
足元に転がったそれを、男はなんの感情も抱かぬ瞳で見下ろしてから不意に眉を寄せた。
窓から差し込んでくる一筋の月明かりのみが、床に倒れて動かない男の姿を浮き彫りにする。
先ほどまでは笑って、話をして、生きていたその男。
いまは己の手にかかって息絶えたその男。
見下ろしていた男はとたんに膝の力が抜けたのだろうか、すとんとその場にひざま付き。息絶えた男の前髪を、先ほど首を絞めていたその震えた手で、いとおしげにかきあげた。感情を押し隠した瞳のその奥から、じわりと熱いものがこみ上げる。二度と動かぬ骸<むくろ>を手にして、冷えていく体温をその手に感じて。
『欲しいのなら、奪えばいい。』
そう言ったのは、息絶えた男だ。どんなことをしてもそれを欲するのなら、奪ってしまえばいい。簡単なことなはずだ。そう言って、いつも浮かべている笑みを色濃くした。
「欲しいのは、身体だけじゃない。」
奪えばそれは簡単に手に入るのだろうが。しかし、それでは。己が一番欲しているそれが手には入らない。男が欲していたのは、身体よりもその心だ。ぎりりと奥歯が鳴り響いた。
『なら、殺してしまえ。』
自由にならない心なら、殺してしまえと息絶えた男が言う。そんな道理は間違っている。その言葉が咽喉を突き上げ、しかし、男は飲み込んだ。殺したのなら手に入るのか? ほんの一瞬、そんな考えがよぎって。
「殺せば、手に入るというのか。」
さすがに、そこまではしたくはなかった。あくまでも一番に欲しいのは身体ではなく、心だ。自分を想うその心が欲しいと思うだけなのだ。
『手には入らん。しかし、他の物になるということはないだろう?』
いともおかしい、というように笑い出した。自分の目の前にいる屈強なこの男が色恋沙汰などと。到底想像も付かなかったのだ。暇さえあれば剣を握り締め己の身体を鍛錬しているようなこの男にも、とうとう訪れたのかと思うとなぜか可笑しさが込みあがってきた。
「他の物にはならないだけ、だと……?」
先ほどよりもほんのわずか、低い声がこぼれた。そんなことは意識はしていなかったのだ。いや、考えれば分かることだったのだ、自分の欲してる人物の気持ちが自分のところにではなく、他のところに行くことなど容易に分かるはずだったのに。
『そうだ。お前のものにはならん。しかし、他の誰かのものにもならん。』
これは名案だ、とでも言いたげに男は押し殺していた笑いを我慢できず、クスクスと笑い出した。手にしていたワイングラスがゆらゆらと揺れ、血のように赤い液体が波打ち。そのまま口元へと運ぶ。すう、とまるで暗い空洞にでも吸い込まれていくようなその赤を見つめたまま、言葉を失った男はじっとしていた。口に含み、味を確かめるかのように舌の上で転がして。じっと見据えていた男に視線を送る。なにか言いたげな、深い色を湛えた瞳が男を見た。
ごくり。
男の咽喉が音を立ててそれを嚥下する。
まるで。
それが。
なにかの合図だったように。
ガタリ、音を立てて屈強な男は立ち上がった。引き寄せられるようにして、ワインを飲み下した男の咽喉へと手を回す。その瞬間に男の瞳は驚愕に染められ、手にしていたワイングラスは音を立てて床へと転がった。円状に回転し、中身が床へと散らばっていく。板張りの床はそれを吸い込むこともなく、そのまま流し続けた。血のような赤が、きらりと月明かりに反射した……。
『俺を殺したいのか?』
緩く首を締め付けられて、男が静かに問う。とても、殺されそうな瞬間に洩らすような言葉ではなかった。静かな瞳の色がじっと屈強な男を見据え、口唇が弧を描く。
『殺したところで、俺はお前のものにはならん。』
ぐ、と指先に力が入った。
ぎりぎりと見開かれたその瞳には、悲しみと怒りと。さまざまが感情が浮かんでは消え、最後にはどの感情すらも浮かべない冷えた眼差しで男を見下ろしていた。
『だが……誰のものにもならん。』
殺したければ、殺せ。
そう、言っているように感じられるほど、静かな声色で。男は自分の首を絞めている男を見上げた。見上げた瞳に湛えられた屈強な男へと向けられる想いを秘めて。
さらに、指先に力が入る。苦しげに歪められた男の顔を見下ろしながら。なにも言わず。ただ、手だけが自分の意志に反するかのように、ぐ、と力が入る。いまここで手を緩めなければ男は絶命してしまうだろう。手を離せ。頭がそう叫ぶ。
だけど。
手が離れない。
ぱき。
軋んで歪んだ骨は、悲鳴を上げる。
細く咽喉を通ろうとしていた空気は、締め上げたために道をふさがれて、逆流しては返ってくる。
苦しげに歪んだその眉に、ふと思わず手を緩めそうになってしまうがしかし、指は己の知らぬところでさらに力を加え続けた。容赦せぬ力で、首を絞めていた。
底冷えのした古い感情だけが身体をめぐった。
人肌に感じていた体温がゆるゆると下がっていく。
苦しげに寄せられていた眉がふいに解かれた瞬間に、男の指先からふと力が抜けた。
どさり。
足元に転がったそれを、男はなんの感情も抱かぬ瞳で見下ろしてから不意に眉を寄せた。
窓から差し込んでくる一筋の月明かりのみが、床に倒れて動かない男の姿を浮き彫りにする。
先ほどまでは笑って、話をして、生きていたその男。
いまは己の手にかかって息絶えたその男。
見下ろしていた男はとたんに膝の力が抜けたのだろうか、すとんとその場にひざま付き。息絶えた男の前髪を、先ほど首を絞めていたその震えた手で、いとおしげにかきあげた。感情を押し隠した瞳のその奥から、じわりと熱いものがこみ上げる。二度と動かぬ骸<むくろ>を手にして、冷えていく体温をその手に感じて。
『手に入らないのなら、殺してしまえ。』
男の言葉が脳裏を焼き尽くす。
絶命する瞬間に見せた男の、うっすらと口唇に浮かんだ微笑みの意味を思う。だんだんと冷えていく頬を撫で、うっすらと浮かべられた笑みを見つめ。ぼやけた視界の中で男は小さくつぶやいた。
「殺したかったわけじゃ、ないんだ……。」
どんなに想っても手に入らない彼を、殺したかったわけじゃない。殺したって、手に入るわけじゃない。それくらい分かっていた。だけど。
ワインを飲む男の瞳が語っていた。『殺せ』と。
お前があがいたところで、俺はお前のものにはなれない。だから、殺せ。
そう、言われている気がしたのだ。
ぽたり。
男の瞳から雫が伝う。
息絶えた男の頬に落ちる。
指先は口唇をなぞり。
涙はそこへも落ちていく。
引き寄せられるかのようにその口唇に己のそれを寄せ、そっと重ねた。
いまだ温かな感触の残る口唇は、しかし、男に答えることはけしてない。
男は、冷えていく身体を腕に抱きしめながら、ただ、涙をこぼしていた。




