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忘れ物の腕時計

 自分の腕には不似合いなほどにごつい腕時計がずしりといつまでも重く。




まさる! ほら、忘れもんだって。」


 玄関を開けて、笑顔が覗く。手には弁当箱が握られていて、こうしてぱっと見ただけではなんだか新婚さんの夫婦のような気恥ずかしさがあった。就職浪人である兄、ひとしがこうして毎日ご飯を作ってくれていることには感謝しなくてはいけないな、と思うものの、こうして実際に弁当箱を渡されるというのは実に気恥ずかしいものなのだ。


「ああ、サンキュ……。」


 言葉も小さく、ぼそりと呟いて手渡された弁当箱を受け取って。ふと見れば、にっこりと微笑んだ兄の顔があった。兄弟でもこんなに違うものかと思うほどに、小柄な兄の身体と二十も半ばになるというのにいつまでも少女めいた面立ち。するりと伸びた指先が「ほら、ネクタイ曲がってるよ。」なんて直してくれて、俺は思わずその手を振り払う。


「いいから。」


「だけど……、」


 営業なんだろ? そう目が言っていて俺はそれでも冷たくあしらった。


「じゃ、行ってくる。夕飯はいらないから。」


 そう言って背中を向ける。

 背中に向けられる兄の悲しげな瞳は見なくても想像できた。子供のころ、「おにいちゃん」と言いながら後を付いて回ったころからは想像もできないくらい成長してしまった俺は、いつまでも変わらない兄に邪な思いを抱いていて。だから。


 気が付けば俺はエリート街道まっしぐらな営業振りで、社内から絶大の支持を得ていてそれがどこか自分には息苦しくてたまらなかった。空気を吸うためにネクタイを緩めにしていても、それを兄に直されるのがつらかった。大学の研究所に勤めていた兄は先日、教授との意見のぶつかり合いで研究所を辞めてしまって。それ以来。住むところもないからと俺のマンションに移ってきた。助かることも多かったのだが俺には困ることもたくさんあったのだ。兄を兄として見られない自分を何度も叱責し、必死に己の思いを押し隠す。それと平行して社内での営業マンである俺の一人歩きや、期待される重さに俺は正直息が詰まっていた。


『沖田くん、出向命令だ。』


 と、ある日のこと言われたことがある。会社では海外進出を目論んでいて、それのまとめ役として俺を抜擢したのだ。俺の働きが幹部に認められたのだろうと回りは祝福してくれたが、俺自身はなんとも思わなかった。それどころか。ますます息苦しさは増していき、そのはけ口さえ見つからない日々だったのだ。

 出向に行っている間は、俺の住んでいるマンションも無人になり引き払わなければならないかと思っていた矢先だったのだ。兄が転がり込んできたのは。時間のなさに散らかっていた室内も綺麗に掃除され、外食ばかりだった俺の食生活も改善されてきた。その面では実に助かっているのに。

 俺さえ兄に対しての邪な思いを抱いてさえいなければ、実に平和な日々だったのだろう。


 愛用の腕時計で時間を確認した俺は、急いで後輩との待ち合わせ場所へと向かった。やることは山積みだ。いままでしてきた仕事の引継ぎやらなにやらで俺は本当に慌しい毎日を過ごしていたのだ。到底、たまり始めていたストレスを発散させる間もなく、日々が積み重なっていく。

 営業用の笑みを顔に貼り付けて、何度も何度も同じことを口にして。


 そんな毎日の積み重ねから、俺はどこか少しずつ崩れていくような気さえしていたのだ。


 時計を見ればもう深夜になっている。もう、兄は寝ただろうかと思いながら家の鍵を開け、中に入る。真っ暗な玄関が俺を向かえ、居間のほうからかすかな物音すらもしなかった。

 やっぱり、眠っているか。夕飯もいらないと言っていたから、その残りすら置いてはいない。きちんと整頓された室内は静まり返るばかりだ。接待でいくらか酒は入っているものの、なんだかまだ飲み足りないような気さえした。もっと酒を飲んで酔っ払って、少しでも今のことを忘れられたら楽かもしれない。

 酒を探しに台所へ行き冷蔵庫を静かに開く。と。


「飲み過ぎは身体に毒だよ。」


 背後から、兄の声がした。振り返れば、眠たそうな顔をした兄が俺を見下ろしている。


「賢、お酒臭いよ。かなり飲んでるだろ。これ以上飲んだらダメだよ。」


 開いていた冷蔵庫の扉をぱたりと閉められて。俺は言葉にならない感情がふつ、と込みあがってくるものを感じた。


「酒くらい、飲んだっていいだろう。」


 子供のように兄に食って掛かっていた。


「ダメとは言ってないよ、飲み過ぎだって言ってるだけだろ。」


 俺を嗜めるような口調で兄が答えた。それすらも気に食わない。いつもならここで引く俺だったが、今日はそんな気分にもなれず、さらに。


「寝る前の一杯だよ、それくらいいいだろうが。」


 だめだ、いいだろう、の繰り返しがしばらく続いた。

 そして。


「うるせぇ!」


 俺は兄を怒鳴りつけそのまま兄の胸倉を掴んで、床に押し倒してしまったのだ。はだけたパジャマから兄の白い素肌がちらりと見えて、俺は言葉を飲み込んだ。踏み入ってはいけないなにかを通り越したような気持ちだった。押し倒してしまったままに兄を見下ろして、息を吐く。思ったよりもずっと酔っていたのかと感じるほどに熱い息が口唇からこぼれていった。


「ま、賢……?」


 掠れた声が俺の名を呼び、ぷつり、頭の奥でなにかが切れた音が、した。

 それから先の俺は、俺ではなかったように思う。いや、俺が長年押し隠していた思いが暴発して、そのまま行動になっていたのかもしれない。

 兄の身に着けていたパジャマを引き裂いて、露になった肌に舌を這わせ。両腕を押さえつけたままに何度も何度もそれを繰り返した。


 やめろ、やめてくれ、やめるんだ。


 その言葉を数数え切れないほど口にしたのであろう兄は、最後には力が尽きたのか抵抗すらしなくなっていた。だらりと伸ばされた四肢には力なく、ぼんやりと開かれた瞳には生気もなく。俺の与える暴行に諦め切ったようにすべてを投げ出したかのようにさえ見えた。

 身体を兄の内部へ推し進めるたびに、苦痛の呻き声が漏れ涙に濡れた瞳が宙をさまよって。床に投げたままの手はけして俺には絡めることもなく。

 無情にもその兄にとっては地獄であっただろう時間は過ぎていった。

 あらゆる暴行を尽くしたように思えた。兄に対して、俺は。自分の思うがままに兄の身体を切り裂いたのだ。兄の足に伝う血液と俺の体液が、虚しく見えた……。




 その日から、兄は生気を失ったかのようだった。笑顔を見せずかといってなにもしないわけではなく。いつもと同じように俺の身の回りの世話を焼き、食事を作り掃除をする。会社へ行く俺のために弁当を作りそれを持たせ……。まるで、機械のように。

 一秒ごとに確実に時を刻む時間のように、兄は毎日を同じように同じ時間、繰り返していたのだ。

 壊したのは俺だった。平和だと感じていた時間を壊したのは俺だ。兄をここまで押し込めてしまったのは、ほかでもない俺自身なのだ。

 思えば思うほど、俺は顔に貼り付けたかのような笑みを外すこともできなくなっていた。

 俺はこの兄を日本に置き去りに、外国へと飛び立たなければならないのだ。




 ぼんやりとニュースを見ていると、飛行機が墜落事故を起こしたとアナウンサーが悲痛の表情を浮かべて伝えていた。折りしも、弟が出向で海外へ飛び立った日のことである。いつものように玄関まで見送ってから、気が付いた忘れ物を届けることもなく、ぼんやりとテレビを見ていた、俺。

 旅客機が、墜落……。

 俺の頭はぼんやりとそれを反芻した。


「賢?」


 いつも気に入ってつけていたごつい腕時計がテーブルの上にぽつりと置かれたままになっていて。


 ──この事故で生存を確認されたものはいなく……。


『この時計、気に入ってるんだ。俺の腕に似合ってるだろ?』


 はにかんだ笑みが目の前に浮かんで。


 ──死亡が確認されたのは……。


『だからさ、俺が死んだとしたらこの時計、形見になるかもしれないぜ。』


 そんなことになるはずがないと否定した俺は笑っていて。


 ──沖田賢さん、橋田恵さん、神田重雄さん……


 読み上げられた名前の中に。


『この時計、俺が死んだら兄貴にやるよ。大切にしてくれそうだしな。』


 弟の名前があった……。


『だけど、俺の腕には似合わないんじゃないかな。』


『それでもさ、大切にしてくれんだろ?』


『するさ、お前の大切なもんならな。』


 テーブルの上に忘れられた腕時計だけが残されて。

 俺は震える手でその時計を手に取った。ずしりと重みのある時計はいまだ正確に時間を刻み続け、ニュースはさらに続いていた……。


 弟は、飛行機事故で命を亡くした。最後に交わした言葉は、上の空に交わした言葉で。俺はそのことをどれだけ後悔したかしれない。

 無理やり身体を開かれて弟を受け入れさせられたことが、俺の意地を突っ張らせ会話もせずに。もしかしたら苦しんでいたのかもしれないというのに。いつになく、酒を飲みたがっていた弟を。その後姿が気になっていたのに言葉にもせず、話を聞こうともせず。残された俺は時計と一緒にいつまでも生きていて。


 自分の腕には不似合いなほどにごつい腕時計がずしりといつまでも重く。


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