鈍色の空を見詰めて
──ああ、いてぇなあ……。
草むらにごろりと転がった姿の青年が、口唇の端に血をにじませながら小さく息をつく。身体全身がぎしぎしびりびりと痛み、実際どこが原因で痛いのかさえ分からないほどだった。
かろうじて動く瞳を、憎たらしいほどに澄んだ青の空へと向ける。
「……う、ふう……。」
噛み締めた歯列の隙間から、苦痛に満ちた辛そうな声が漏れた。少しのみじろぎでさえ痛みが走るのだ。青年は動くことを諦めたかのように空を仰ぐと、そのまま両手をぱたりと草の上へと投げ出した。
むしゃくしゃしていたのだ、実際のところ。だから、普段はあまり乗らないバイクへとまたがって爽快な風を受けようと、思ったのだ。そうすれば、心の中にある不快感が拭えるかもしれない。そう、思えた。だが、走れば走るほど、脳裏にこびりついたように記憶された言葉がよみがえってきてしまう。
『楠木は、俺の気持ちなんか分からないよ。適当に遊んでたお前に、真剣に恋をしていた俺の気持ちなんて。』
失恋。そのことにうなだれた白いうなじが見えた。スーツを着こなすようになってから早一年。瀬宮は始めての失恋をしのだ。学生時代から付き合っていた彼女だったのだが、就職先が別になり、気が付くともう、何日も会わない日々が続いていた。いつも「元気にしてるかな。」だの、「こんな時間に電話したら悪いよな。」だのと、遠慮がちな瀬宮の態度に彼女が切れたのだろう。ある日突然の別れ話。
酒を手にした瀬宮が楠木の家を訪れたのはちょうど、そんなときだった。失恋した瀬宮を慰めようとした楠木に、突然放たれた言葉。
真剣に恋をしていない、とそう見えたのだろう。実際、楠木がしていた行動はそう言い放った友人の瀬宮にとっては、遊んでいたように見えたのだろう。だが、楠木はずいぶん長い間、本気で恋をしていたのだ。口にできないほどに、真剣に。友人の瀬宮に、恋をしていた。
いつからだっただろう、すでに思い出せない。学生時代からずっと一緒にいて、気が付けば好きになっていた。傍にいたいとそう、願っていた。傍にいられるのなら友人のままでいいとさえ、思っていたのだ。その反動でたしかに、いろいろな人間と関係を持っていたにしろ。
『俺だって真剣に恋くらいしていたさ。』
売り言葉に買い言葉のように、楠木はそう言い返していた。その言葉に、どきりとするほどに大きく見開かれた瞳が、刺さるようで。瀬宮の視線に、まるで心臓を鷲掴みされたかのような、そんな心境にさえなった。
『そんな……。俺、聞いてないよ?』
躊躇われたような、困惑しているかのような言葉に、楠木はこれ以上自分を抑えることができなくなり、瀬宮の肩を引き寄せるとそのまま、口唇を合わせていた。初めて味わう瀬宮の口唇は思っていた以上に柔らかく、そして甘美な味がした。そのままさらに口付けようとして、力いっぱいに肩を押し戻されて。
そして、ふと我に返る。冷たいような、けなすようなそんな視線に見つめられ、楠木は終わりだと確信した。このままなにもなかったことのようには振舞えない。そう、感じた。
『俺がずっと好きだったのは、お前だよ。瀬宮。』
名前を呼んだ瞬間に震えた肩は、畏怖の表れだったのか。怯えたような眼差しで楠木をじっと見据え、まるで汚いものでも触ったかのように口唇を拭い去る。
──完全に、嫌われた。
そう心が呟いた。ぱりぱりと音を立てて、乾き切っていた心がはがれていくようで。それでいて、どこか泣きたくなるような気持ちが溢れかえって。
それでも楠木は自分の口唇を手の甲で拭うと、小さく自嘲を漏らす。これ以上嫌われることはないのだと思うと、気持ちは楽になった。でも、心は痛かった。ざりざりとした後味の悪さを肌に感じて、楠木はなにも言わずにただ自分を凝視する瞳から逃れるように、瀬宮に背を向けた。
本当に、逃げ出したかったのだ。
『楠木!』
瀬宮の声が背中にぶつかるが、これ以上話すことはないんだと言うかのように、けして振り返ることはしなかった。振り返れなかった。全身が小刻みに震えて、握り締めたこぶしが、手のひらに刺さる爪の痛さを感じて。じわりと熱くゆがむ目頭が、どうしようもなくて。
──不快感。
それ以外に例えようがなかった。そのときは、そう思えたのだ。想いを伝えて、さらにそれを拒絶されること。そして、瀬宮にそうさせたのは自分だということ。それらすべてが重なった、大きな、大きな不快感。
かすかに視界を動かすと、ごろりと転がったままの自分のバイクが見えてくる。
草原のど真ん中。だだっ広い道路の隅っこに転がっている。突然現れたキツネを避けようとして、そのまま横転してしまった。ガードレールもなにもない、ただ広い草原に楠木は放り出され、そのまま動けずにいる。
飛び出したキツネは楠木が横転した音に衝撃に驚いて走り去ってしまった。無事だったのかと、そう感じて、わずかながらでもささくれた自分の心が和らぐのを感じた。ほんのわずか一瞬には「轢いてしまえ」と心が喚いたのだ。だが、そう思うと同時に楠木はハンドルを動かしていた。キツネとは逆の方向に。少しでも避けることができるように。
「俺もまだ、良心あったんだな。」
クスリと笑いをこぼしながら呟いてみるものの、痛む身体はだんだんと増していき、仕舞いには末端の感覚は消えうせ始めていた。
「ここで俺、死ぬのかもなぁ。」
ぼんやりと呟いてみる。それも悪くない。どこかでそう、聞こえた気がした。五年以上もただずっと見詰めていただけの恋は、ほんの一瞬にして塵と化したのだ。それが砕けた痛さはきっと、いま感じている全身からの痛みさえも敵うはずが無いのだ。ずっとその痛みを感じ続けなければいけないのなら、あの、口唇を拭った瞬間の瞳が永遠に続くのなら、ここで死んだほうが増しなのかもしれないとさえ、思った。
「うくっ。」
指先を動かそうとして、痛みにうめく。うめきながらもだんだんと気が遠くなるのを感じて楠木は、空を見詰めていた瞳をゆっくりと閉じていった。
気を失った楠木の身体がだんだんと冷えていく。けして強くは打っていなかった鼓動が徐々に弱まっていく。消え入りそうに、なくなりそうに。
それはまるで、空が黒い雲に覆われるかのようにゆっくりと、だが、確実に楠木を覆いつくしていくのだった。




