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いつか空を飛ぶ、あなたのために

 渡邊わたなべが憧れつづけた戦闘機が、目の前に整然と並んでいる。瞳を輝かせて渡邊はその戦闘機にじっと見入った。威風堂々とした姿の、零戦闘機だ。渡邊はこの戦闘機に憧れて兵学校へと入校し、整備兵の道を選んだ。この戦闘機をすべて自分の手で整備したくて。完璧な機体にして操縦兵に託したかった。いまやっと、その願いが叶うのだ。渡邊は嬉々とした笑顔をその童顔に浮かべ、戦闘機へと近づいていく。上官である整備兵に敬礼をし、渡邊ははやる心を抑えながら戦闘機の前へと歩いて行った。

 と、そのときである。


「整備兵の皆さん、ご苦労様です。」


 背後から、凛々とした声が聞こえてきた。渡邊がどきりとして背後を振り返ると、そこには、いましがた訓練を終えたのだろう飛行機乗りが、口唇の端に笑みを浮かべて立っている姿が目に入った。操縦桿を握る皮の手袋をするりと脱ぐと、飛行機乗りはゆったりとした動作で戦闘機へと近づいてくる。

 渡邊が見上げてしまうほどの長身で、黒い瞳を揺るぎ無い強さで戦闘機に向けていた。ちらりとその視線が渡邊へと向けられて、そのままうっすらと細められる。


「新兵か?」


 低い声が近づいてきて、渡邊の前に立ちはだかった。歴然とした体格差が手に取るほどに分かるくらいだ。渡邊はどきりとした鼓動を抑えつけるかのように胸を掴むと、「は、私は渡邊一等兵であります。」敬礼をした。その瞬間に飛行機乗りの咽喉からククク、と笑い声が漏れて、いかにも可笑しいというように口元を抑えて笑い出す。渡邊はその意味が分からずに、恥ずかしさのあまりかあっと頬が赤くなっていくのを感じてしまった。

 それを見ていた飛行機乗りはさらに笑い声を押し殺すと、可笑しさで顔を歪めながら「俺は君嶋きみじま少尉だ。このゼロ戦の操縦士をしている。」言いながら耐えられないというように大きな声で笑い出してしまった。呆然とした顔つきで渡邊は君嶋と名乗る男の顔をただじっと見つめるばかりだ。なぜ彼が笑うのか渡邊にはこのとき、まるで分からなかった。




 整備は完璧に。と、教え込まれたものだ。渡邊は練習を終えて戻ってくる戦闘機に駆け寄ると、まずおかしいところはないか、破損個所はないか事細かに調べていった。それをいかにも楽しそうに見つめる君嶋の視線が背中に痛かったが、渡邊はそれには気がつかないフリをして整備のほうへと熱中する。時折、レンチを手から滑り落とし、慌てて拾いに行く姿を君嶋に笑われて頬を赤く染めたこともあったが、二人の間には会話という会話があったわけでもなかった。なにを言うわけでもなく背後からじっと見つめられる、というのは、どうにも居心地の悪いものである。いつか渡邊はなぜ自分を見るのか訊いてやろうと思っていたが、なかなか機会に恵まれず、いつも整備をする自分の姿を見つめる君嶋の視線を背中に浴びながら作業を続けていたのだった。

 そんなある日のことだった。いつもはただ黙って作業をしている渡邊の背中を見つめていた君嶋が、ぽつりと言葉を漏らしたのだ。


「渡邊一等兵。お前はなぜ、飛行機乗りを目指さなかったんだ?」


 渡邊は君嶋の言葉にふと、手を止めてしばらく考え込んだ。なぜ、と問われると明確な言葉が浮かんでこなかったからだ。


「飛行機乗りは誰もが憧れるだろう。みんななりたいと、そう言う。だが、お前は最初から整備兵を希望していたそうだな。なぜだ?」


 君嶋はなにも答えようとはしない渡邊にかまうことなくそう続けると、作業の手を止めて振り返る渡邊へと小さな笑みを向けた。その微笑みに少なからずどきりとしたが、渡邊はしばらくただじっと俯いたまま黙っていた。


「自分は、飛行機乗りに憧れなかったわけじゃないです。」


 しばらくの沈黙の後、言葉を選び慎重に話し出す渡邊を、君嶋はなにも言わずにじっと見つめ返す。


「だけど俺は、操縦兵に『完璧です』って笑って言いたかったんですよ。」


 話しながら渡邊がきりりとレンチを回した。まるでその場を凌ぐかのように。しんみりとした空気が辺りを覆い、渡邊はその空気に耐え切れなくなったようにクスリと笑ってみせた。


「おかしいでしょう?」


 その瞬間に君嶋の動きがわずかに止まり、にこりと笑った渡邊の顔を凝視する。両の瞳を見開いて驚いたように見つめてくる君嶋を、渡邊は不思議な気持ちで見つめ返した。が、それもわずかな時間でしかなかった。


「じゃあ、今度俺が出撃するときは、『完璧です』って笑顔で言ってくれるんだな。」


 クスリと君嶋が笑った。その言葉にはどこか、「そうして笑って見送ってくれるのか」というような意味合いが込められているような気がして、渡邊ははっとしたように君嶋を見つめた。


「無事に戻ってきてくれないと、完璧かどうだったのかなんて分からないじゃないですか。」


 考えるよりも先に、そう言葉が出てきていた。渡邊は君嶋には死んで欲しくないとそう、素直に思えたからだ。


「……そうか。なら、無事に戻ってこないといけないな。」


 君嶋は困ったような笑みをかすかに浮かべてみせると、大きく伸びをしてからゆったりと立ち上がる。渡邊はこのとき、初めて自分が口にした言葉の意味を理解した。戦場へ赴く人間にとって、無事に戻って来いというのはあまりにもむちゃというものだ。死ぬかもしれないと思いながら毎回戦闘機に乗り、敵機を追撃し帰還する。そのことがどれだけ大変なことか、思う前に口にしてしまっていたのだ。


「君嶋さん。いまの俺の言葉は、忘れてください。」


 きゅ、と下口唇をかみ締めながら小さな声でぽつりと呟く渡邊に、君嶋は意外にも柔和な笑みで対応する。


「いや、そうやって無事に帰って来いと言ってくれるのは、お前くらいなものだ。」


 しんみりとした笑顔が渡邊を見やり、そのまま背中を向けて歩き出した。渡邊は言葉もないままに小さくなる彼の背中を見つめながら、ぎゅ、とレンチを握り直して小さく息を吐く。いま自分が置かれている場所と、君嶋がいる場所があまりにも遠く感じられて、どうしようもないほどに悲しくなりじわりと涙で視界が歪んだ。


 ──君嶋さん、あなたがいる場所はあまりにも死へ近い。俺がいる場所よりももっと、近い。


 そう思えば思うほど、渡邊は整備するということに力が入らなくなり、とうとう作業の手を途中で放り投げてしまっていた。それは初めてのことで、自分にとっても信じられないことだった。このままでは明日の訓練に支障が出るかもしれないと思うのに、手が動かない。先ほどの君嶋との会話で、渡邊は「死」というものがあまりに身近で、すぐ背後に迫ってきているように思えて仕方が無かったのだ。

 呆然としたままに機体の前に座り込んだ渡邊は、ぐす、と鼻をすすった。


 翌日、いつものように操縦兵たちが戦闘機へと足を運ぶ姿を、渡邊は遠くからただじっと見つめていた。皆が皆、同じ戦闘服を着ているために、遠目からは辛うじて誰が誰なのか判別がつく程度ではあったが、君嶋のガタイの良さは遠くからでもすぐに分かってしまう。渡邊は無意識に君嶋の姿を捜している自分に気がついてはっとし、そのまま地面へと視線を落とした。

 昨日整備していた君嶋の機体は、完璧だっただろうか。自分が言うように、「完璧です」と笑って言えるだろうか。渡邊はなぜか漠然とした不安に襲われて、次から次へとエンジンが回っていく戦闘機を視界に入れることができなかった。

 俯いたまま、渡邊が下口唇を噛み締める。大丈夫だろうか、大丈夫だろうか。そんな思いがぐるぐると身体中を駆け巡り、渡邊はなぜか全身から冷たい汗が噴き出る思いで立ち竦んでいた。


「機体は完璧なんだろう?」


 ふと、頭の上から聞き覚えのある声がする。渡邊ははっとしたように顔を上げると、そこにはうっすらと笑みを浮かべた君嶋が立っていた。


「君嶋、さん。」


 渡邊がぼんやりと彼を見上げ、ゴクリと唾を嚥下した。その言葉に、はきはきと答えることが出来ない自分に焦りを感じ、渡邊は言葉をなくしてただ俯くだけだ。


「そんな顔をするな。」


 くしゃりと、大きな手が渡邊の頭をそっと撫でていく。その感触に驚いたように顔を上げた渡邊の視線に、君嶋のいつになく優しげな笑顔が映し出された。どきりと、渡邊の鼓動が高鳴って頬が紅潮していく。


「あ……。」


 渡邊がなにか言う前に君嶋は身を翻して戦闘機へと駆けていってしまう。渡邊はいまだ高鳴る胸の鼓動に躊躇しつつ、走り去る君嶋の大きな背中をじっと見つめた。どうか、今日も無事に戻ってきますように、と願いを込めて。




 整備兵は訓練機を見送るとすぐさま予備戦闘機の元へと戻ってくる。いつ、戦闘機が破損してもいいように、いつでも飛べ立てるように準備しておかなければならないからだ。だが、今日に限って仕事にならない。渡邊は先ほどの君嶋が気になって仕方が無いのだ。いつになく優しい笑みを見せた君嶋が、まるでどこかに行ってしまいそうな気がしてしまう。ふと最悪の事態を頭に描き、慌ててかき消した。だが、それは小さな欠片となって渡邊の頭を埋め尽くしてしまう。

 不安なまでに押し寄せる、不気味な想像が渡邊をどんどん追いやっていく。整備を続ける渡邊の手が震え、まともに工具を握ることができず、何度も滑り落としてしまった。


 ──情けないよな、俺だっていつ死ぬか分からないのに。


 そう思うものの、やはり君嶋のことが気になって仕方がなかった。


 夕方、次から次へと戦闘機が戻って来て、渡邊はまるで転がるかのようにして滑走路へと飛び出していた。はやる気持ちを抑えつつ、君嶋の搭乗した機体を探す。

 一機、二機と戻ってくる中、なかなか君嶋の搭乗した機体は現れなかった。

 背筋がひやりと凍りつく。まさか、という思いが胸に広がり、じわりと足元から不安と焦りが駆けあがってきた。


『無事に帰って来い、と言ってくれるのはお前くらいなものだ。』


 と、うっすらと瞳を細め、どこか嬉しそうに言った君嶋の顔がありありと思い出される。いつも、背中越しに見つめられていた視線を思い出す。


「君嶋さん!」


 渡邊は思わず君嶋の名前を呼んでいた。

 戻ってきているなら返事をして欲しい、そう思って。だが、返事は戻ってはこない。ざわざわとした滑走路のどこからも、君嶋の声は聞こえてこなかった。


 もしかして、機体が壊れてしまった?

 もしかしたら、撃墜されてしまった?

 もう、君嶋さんは戻ってはこない?


 渡邊は最悪の事態が頭にこびりつき、じわりと涙が溢れてきたことさえにも気がつくことはなかった。


「戦禍報告! 撃墜機体数、七機! 全機、帰還!」


 遠くのほうでそう、戦禍報告を告げる声がする。

 全機、帰還なんて嘘だろう。だって、君嶋さんは戻ってきていない。

 ぼんやりとした頭でそう思いながら、渡邊はふらふらとした足取りで官舎へと戻ろうとした。くるりと踵を返し、一歩前へと足を踏み出そうとして、前方に人が立っていることに気がつく。


「あ、すみませ──って、君嶋さん?!」


 見上げて、その人物を確認した渡邊は、悠々とまん前に突っ立っている君嶋の名前を呼んだ。


「なにぼんやりしているんだ?」


 怪訝そうに眉をひそめ、渡邊を見下ろしてくる君嶋は、幻でもなんでもないようだ。安心すると同時に、渡邊は涙腺が緩んだのか、つう、と涙をこぼしていた。渡邊自身でさえも気がつかないほど、静かに。


「なに、泣いている。」


 そう言って君嶋が慌てたように皮の手袋を脱ぎ、渡邊の涙に濡れる頬を乱暴に手のひらでこすった。じんわりと温かな体温が伝わってきて、渡邊はどっと押し寄せてきた安堵感に包まれていく。君嶋の手の、ちょっとだけがさがさした皮膚の感触を頬に感じて、渡邊がそっと瞳を閉じた。少しだけ上向きに顔を上げ、つう、と涙が頬を伝ってじわりと君嶋の手のひらに染み込んでいく。その温かさにどきりと、君嶋の鼓動が跳ね上がった。だが、すぐに渡邊の涙は冷えてしまい、あとから続く涙さえも冷たく冷やしてしまう。

 君嶋はなぜ渡邊がこうして悲しそうに泣くのか、見当はついているものの言葉にはできないでいた。してはいけないような、そんな気がしたのだ。


「君嶋さん……。」


 潤んだ瞳がぼんやりと見上げてきて、触れていた君嶋の手の甲にひんやりとした渡邊の手が添えられる。そして、ゆったりと力がこもり君嶋の手をそっと外した。その手を視線で追うかのように渡邊はそのまま俯いていき……。


「すみませんでした……、泣いたりして。」


 小さな呟きがこぼれてきた。

 君嶋は渡邊の俯いた顔をただなにも言わずにじっと見下ろしていたが、やがて小さく息を吸い込むと、「……いや、かまわん。」ぼそりと返した。そしてそのまま続ける。


「もう、いいのか。」


「はい……。すみませんでした。俺は、大丈夫ですから。」


 ぼそぼそとぼそぼそと呟く声が聞こえ、渡邊は唐突に顔を上げた。その表情には先ほどのような悲しそうな色は見えず、逆に微笑みさえ浮かべている。君嶋は渡邊のその変わりように驚き、どきりとして掴まれていた手を渡邊の手から抜き取ってしまった。

 君嶋には、渡邊のその笑みがとても──綺麗に──見えたのだ。なにかを吹っ切ったようなそんな感じにも取れる微笑みが、なにかを押し堪えるような瞳の奥が、君嶋をまっすぐに見詰めてくる。初めて見たときは幼いと思えて微笑みを誘ったその顔が、いまはなぜかとてもしっかりとした大人の顔をしていた。


「きっと今度は、大丈夫ですって胸張って言えるようにしますから。」


 先ほどまで泣いていたとは思えないほどのしっかりとした声で、渡邊がそう言い切った。そして、まっすぐに君嶋を見詰めて薄く笑う。


「そう、か。頼りにしているぞ。」


 わずかに戸惑いを隠せないものの、君嶋は渡邊ににこりと笑みを浮かべると、言葉を返す。

 そうして、渡邊は軽く君嶋に礼をするとそのまま、ゆっくりと背を向けた。


(君嶋さんに大丈夫だって言いながら見送りはしたくない──本当は。)


 渡邊はどこかでやはりそう思ってしまう。

 居心地が悪いと感じていたはずなのに、いつの間にか君嶋の存在が感じられないと安心できなくなっていたのだ。背中に感じる君嶋の視線を渡邊はぐ、と口唇をかみ締めることで振り返らないように堪えた。そうしてふと思い出す。視線を感じてふと見上げた先に見えた君嶋の、うっすらと細められた優しげな瞳、視線。渡邊は歩きながら、背後に君嶋の視線を感じながら手のひらを知らず知らずに握り締める。

 いまここで振り返ってしまっては、せっかく笑って「完璧です」と言おうと決心した心が鈍ってしまう。君嶋に、行くなと言ってしまいそうで。

 ぎゅ、と下口唇をかみ締めて、じわりと熱くなって潤む目頭を必死に見開いて前を見詰めた。つう、と伝う涙があまりにも熱くて、渡邊はその熱さに胸が痛む。頬に伝う涙を感じて、さらに涙が込みあがってきてしまう。

 いまここで、振り返って「行くな」と言ったら、君嶋はどんな顔をするんだろう。

 渡邊はそうしたい気持ちを必死に押さえつけた。これ以上君嶋を困らせてはいけない。笑って見送らなければ。思えば思うほど、渡邊の涙はあふれて止まらないのだ。


「……くっ。」


 渡邊は息が引き攣れて、思わず声を漏らした。そのまま耐え切れずに手のひらで顔を覆ってしまう。きつく閉じた瞳からは涙が止まらず、渡邊はその場に立ち止まって流れ落ちる涙を拭った。


「渡邊っ!!」


 そのときだ。

 背後から君嶋の声が響いた。渡邊はどきりとして息を呑んだが、涙に濡れたまま振り返るわけにはいかないとばかりに、慌てたように手のひらで頬を拭っていく。だが、一度緩んだ涙腺は渡邊の思うようには止まってくれず、肩に君嶋の手の感触を感じた瞬間にびくりと震えてしまった。止まらなかった涙の、ほんのわずかな焦りが、肩を小さく揺らしてしまう。


「渡邊、無理に笑わなくていい。」


 はあ、と切れた息の下から君嶋がそう低く声を漏らす。渡邊が思わず振り返ってしまうほど掠れた声が、君嶋の口からこぼれて落ちた。


「一人くらい、泣いてくれたほうが俺は。」


「きみじま……さん?」


 振り返った渡邊の瞳は大きく見開かれ、わずかに俯いた君嶋を凝視した。渡邊に見詰められながら君嶋は微苦笑を浮かべ、「何の為に出撃しなければいけないのか、分からないんだ、本当は。」ぽつりとこぼした。


「日本は負ける。」


 君嶋ははっきりとした口調で、そう言い切った。


「きみじまさ──。」


 渡邊が君嶋の名前を呼びかけたその瞬間、ぐ、と肩を掴まれて引き寄せられる。気がついたときには渡邊は君嶋に抱き竦められるような格好になっていて、耳にかすかな君嶋の吐息を感じた。


「君嶋さん……。」


 渡邊はゆっくりと君嶋の背中に腕を回して彼を抱きしめた。君嶋の抱く不安が、彼の腕を呼気を通して伝わってくるようで。渡邊は胸に詰まらせていた思いを口にしてしまっていた。


「君嶋さん……無事に戻ってきてください。俺、あなたには死んで欲しくないんです。なぜだか分からないけど、でも!  俺が整備した機体で、あなたがそれに乗って飛んでいくのを見たとき、胸が締め付けられるかと思った。まるで俺があなたを殺すような気持ちになった……っ。」


 ぎゅ、と渡邊が君嶋の背を掴んでいる指に力を入れた。固く閉じた瞳からふたたび涙がこぼれ落ちる。


 ──死なないで。


 渡邊の心にはっきりとした気持ちが形になっていく。この人には死んで欲しくない。そう思う気持ちが溢れて止まらず、渡邊はそれでも言葉を飲み込むようにしてきつく君嶋の背を抱いた。




「帽ふれーっ!」


 戦闘機に乗ったパイロットを見送るため、兵士が一同整列をしていっせいに号令に合わせて帽子を振る。君嶋は渡邊が整備した機体に乗り込んで、その帽触れの儀式をじっと眺めた。

 これから攻撃へと向かうパイロットを見送るための儀式である。その中にはぐっと涙をこらえて帽子を力いっぱいに振る渡邊の姿が見て取れた。君嶋はその姿を瞳に焼き付けてからゆっくりと機体を走り出させていく。帰れるとも知れない戦場へ向かうため、君嶋は空を飛ぶのだ。

 渡邊はゆっくりと自分に向けて手を振った君嶋の姿を見詰めると、下口唇を噛んで涙を堪えていた。空を飛ぶ君嶋のために、渡邊はこれ以上ないというほどに機体を完璧にし、そして彼を見送るのだ。

 帰れるとも知れない君嶋のために、渡邊は精一杯の力を注いで機体を整備した。それが君嶋の願いでもあったから。


『死ぬなら、渡邊が整備した戦闘機がいいな。』


 どこか遠くを見詰めてそう言った君嶋の姿を、渡邊はきっと忘れないだろう。


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