第20話 決裂
一時間後。
ベラは下町の廃墟――かつての『ぬくもりの針と糸』の跡地にいた。
瓦礫を素手で退け、泥だらけになりながら店の裏手の木の根元を掘り返す。
爪が割れ、指から血が滲むのも構わなかった。
やがて、カチン、と硬い音がした。
出てきたのは、油紙に包まれた小さな鉄箱だった。
震える手で開ける。
中には、古い捜査資料の写しと、妹の友人の手帳が入っていた。
妹には記者の友人がいたが、若くして病で亡くなったと聞いていた。
資料の日付は十年前。『嘆きの聖女事件』。
無実の少女が魔女として処刑された、悲劇の事件だ。
その判決を下したのがヴァルデングだった。
だが、手帳に挟まれていたメモには、真犯人がヴァルデングの甥であり、それを隠蔽するために少女に罪を被せた証拠が記されていた。
きっと妹は友人の記者からこれを託されていたのだろう。
そしてもう一つ。
透明魔獣を使役するための、「特殊香料の調合レシピ」が入っていた。
「……これは」
レシピに書かれた材料。腐った果実のエキス、鉄錆の粉末、そして白檀。
あの夜、そして先日の襲撃で嗅いだ臭いと完全に一致する。
フワッ……。
その時、風に乗って微かにその臭いがした。
「……!」
ベラは顔を上げた。
臭いの跡を辿る。下町を抜け、第一地区へ。
そして辿り着いたのは――壮麗な鉄柵に囲まれた、ヴァルデング判事の私邸だった。
ベラは物陰に身を潜め、「針子の眼」で周囲を凝らした。
庭園の奥で、ヴァルデングが何かに声を掛けている。
彼は何もない空間に向かって微笑みかけ、手にした生肉の塊を放り投げた。
手袋もせず、腐敗臭のする魔獣の餌を、その素手で掴んでいる。あの染み付いた異臭は、これだった。
空中で肉が消滅し、カチ、カチ、という咀嚼音が響く。
「……よしよし。いい子だ」
確定だった。
これ以上の証拠はない。あの男が、妹を殺し、クラリスを襲わせた元凶だ。
+++
夜。
クラリスが上機嫌で私邸に帰宅すると、リビングは暗かった。
明かりもつけず、ベラがソファに座っている。
テーブルの上には、泥だらけの鉄箱と、画集が置かれていた。
「……ベラ? どうした、暗いぞ」
クラリスが魔石灯をつける。
照らし出されたベラの顔を見て、クラリスは息を呑んだ。
いつも自分に向けてくれる温かい日向のような瞳が、今は凍てつくように冷たかったからだ。
「……団長。座ってください」
「……なんだ、改まって」
クラリスはいぶかしげにソファに座った。
ベラは静かに、しかし確信を持って告げた。
「妹を殺した犯人が分かりました。……そして、先日町民が襲われた事件緒黒幕も」
「本当か! 誰だ、その愚か者は。私がすぐに斬り捨ててやる」
「……それは、これを聞いても同じことを言えますか?」
ベラはクラリスの目を真っ直ぐに見据えた。
「犯人は……ヴァルデング判事です」
時間が止まった。
クラリスは数秒間、言葉の意味が理解できないように瞬きをした。
やがて、その顔が引きつった笑みに変わった。
「……貴様、何の冗談だ。悪趣味だぞ」
「冗談ではありません。これが証拠です」
ベラはエミリーのデザイン画と、発掘した証拠書類を突きつけた。
「判事は過去の冤罪事件を隠蔽するために、それに気づいた妹を始末したんです。……今日、私は見ました。彼の屋敷で、彼が透明魔獣に餌を与えているのを」
「嘘だッ!!」
ドンッ!!
クラリスがテーブルを叩きつけた。
「取り消せ! 今すぐその汚い言葉を取り消せ!」
「事実です! 目を覚ましてください、団長! あの男は貴女を娘だなんて思っていない。貴女を都合のいい人形として……」
「黙れ黙れ黙れッ!!」
クラリスは耳を塞ぎ、叫んだ。
その姿は、信じていた世界が崩壊するのを拒絶する子供そのものだった。
「あの方は……ヴァルデング様は、私にとって父だ! 唯一、私を騎士として認めてくださった方だ! そのあの方が、人殺しだと? 善良な町民を襲わせたと? ふざけるな!」
クラリスは立ち上がり、テーブルの上の証拠書類を薙ぎ払った。
紙片が宙を舞う。妹の命がけの告発が、床に散らばる。
「……団長」
「私への当て付けか? それとも、私の幸せが妬ましいのか? だからこんな……薄汚い紙切れで、私とあの方を引き裂こうとするのか!」
クラリスの目には涙が溜まっていた。
怒りではない。恐怖だ。
ベラを信じれば、ヴァルデングという「父」を失う。
ヴァルデングを信じれば、ベラという「安らぎ」が嘘になる。
その矛盾に耐えきれず、クラリスは一番安易で、一番残酷な防衛本能を選んだ。
「……出て行け」
クラリスは震える指で扉を指差した。
「二度と私の前に顔を見せるな。……貴様など、最初から拾ってくるべきではなかった」
決定的な拒絶。
何も言わなかった。
言い訳も、説得もしなかった。
今のクラリスには、何を言っても届かないと悟ったからだ。
洗脳に近い依存。それを解くには、言葉ではなく、もっと強い衝撃が必要だ。
「……分かりました」
ベラは床に散らばった妹の形見と資料を、一枚ずつ丁寧に拾い集めた。
(これは、あの子にはまだ重すぎる真実だわ。……私が、持っていきます)
懐にしまい込み、ベラは立ち上がった。
去り際、クラリスの乱れた襟元が目に入った。
無意識に、それを直そうと手が伸びる。
だが。
ビクッ。
クラリスが、怯えたように後ずさった。
その拒絶反応に、ベラの手が空中で止まる。
「……そう、ですね。もう、私の出番ではありませんね」
ベラは悲しげに微笑み、手を下ろした。
「……サイズが、合わなくなってしまいました」
それが、最後の一言だった。
ベラは背を向け、振り返ることなく部屋を出て行った。
バタン。
重い扉が閉まる音が、広い屋敷に反響した。
+++
静寂が戻ったリビング。
クラリスは一人、立ち尽くしていた。
怒りは波が引くように消え去り、後に残ったのは、内臓を抉り取られたような喪失感だけだった。
「……ベラ?」
呼んでも、返事はない。
いつもの「はい、団長」という優しい声はもう聞こえない。
「……なんでだ」
クラリスは膝から崩れ落ちた。
寒い。
一週間前までは当たり前だったこの部屋の冷たさが、今は耐え難いほどに寒い。
今朝、あんなに幸せだったエプロンの感触も、ふわふわのクッションも、すべてが色あせて見える。
「……待って」
クラリスは、ベラが最後に見せた、あの寂しげな笑顔を思い出した。
そして、空中で止まった手。
自分は、あの手を振り払ってしまった。
一番大切にしてくれていた、一番温かい手を。
「……嘘つき! ずっと一緒にいるって言ったじゃないか!」
クラリスは誰もいない虚空に向かって手を伸ばした。
指先が空を切る。
残っているのは、微かな日向の匂いだけ。それも、時間の経過と共に薄れていく。
「……うぁぁぁぁぁぁッ!!」
広い「氷の鳥籠」で、クラリスは声を上げて泣いた。
自分の手で、唯一の温もりを捨ててしまった絶望に震えながら。




