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三章ノ六



 間宮の言葉は全て、そうあっていいのかと問いかけるようで、ひとみは耳を(ふさぎたい衝動に駆られた。

 反論できない。言い返せない。

 正しいのがどちらかなど、分かりきった答えなのに、なぜ正論を突き通せないのか。

「岩下も、もう表社会に復帰するのは無理だろう。君たちは達成感にかれるだろうが、それも一時の感情だ」

 なにをしても、誰も幸せになどならない。

 先にある絶望を知って、その道を選択などできない。

 事実を公にして正義を振りかざしたら、その先になにがあるのか。誰が幸せになるのか。

 間宮の言うとおり、当時の刑事は罵られるだろう。しかし彼らに、彼らの家族に非があるのか。誰かの幸せをつぶして岩下の無罪を説いたところで、きっと岩下は喜ばない。

「君らの満足感のために、他者の生活を壊すのか? 真実の暴露に、その価値があるというのか?」

 なにも言えない自分に腹が立った。ひとみがいくら睨んでも間宮が怯むことなどないだろう。間宮には間宮の持論(じろん)があり、それを信じているからこそ彼はこんな大胆な手段に打って出てきたのだ。

 じわりと涙が(にじ)みそうになる。息を吸い、わななく震える唇を開く。

 次の瞬間、部屋の扉が優しく開いた。

「失礼します」

 扉の先から見えたのは間違いなく岩下だ。

 突然の登場に、ひとみは軽く混乱する。

 どうして彼がここにいるのか、なぜ来てくれたのか、それが嬉しいと思ってしまう自分が嫌だ。

 眼に()まる涙をどうにか引っ込めようとするが、上手くいかない。

「いわし、たさん?」

「なんでここが」

「遅かったな」

「すみません、あなたに待っていただく予定がなかったものですので」

 間宮を軽くあしらうと岩下はひとみの前まで来、しゃがんだ。

 ひとみは涙が零れないように必死に耐えるが、その努力もむなしく一つの雫が頬を伝った。

 一つ零れると、あとは容赦がなく、とめどなく涙が零れていく。とまれと、何度も心の中で念じるが効果はない。

 岩下は黙ったままひとみを抱きよせ、胸を貸してくれた。零れた涙の分だけ岩下のシャツが濡れていく。

「あなた方の話は盗聴器でうかがっていましたので、現状の説明は結構です」

「相変わらず可愛げのない奴だ。それで、お前はどうする?」

「岩下、明日香を殺してないんだったら、今からでもそれを皆に言って」

 遠慮ぎみに言う麻生の言葉に、岩下は首を振る。

「今更、なにかを話す気にはなれません。今の生活に不満もありませんし」

 ひとみの頭を撫でながら、岩下が素っ気なく言葉を返す。

 間宮はタバコを机で消し立ち上がる。

「話が早くて助かるな。とまあ、そういうわけだ少年少女。当の本人も真実の暴露など望んでいない」

 とうとうと語る間宮に、岩下が射すような視線を送っている。

「今回の件に関わった全員が口を閉ざせば、ひとみさんを狙うのもやめてもらえますね?」「無論だとも。我々とて手荒な真似がしたいわけではない」

「間宮警部。もう一つお伺いしたいんですが」

「なんだ」

「ひとみさんをトラックで狙うよう指示したのは、あなたですか?」

「残念ながら違うな。私の上にもまだ上司がいて、その上司にも更に上がいる」

 それはこの場で間宮を制しても、状態が変わらないことを意味する。

 彼の上には更に上がいて、その上にも上がいる。社会のあり方としては当然だろう。

 警察という巨大な組織。地位も権力もあるそれの、正しいあり方とはなんなのか。

 権力を持てば多かれ少なかれ不正もあるのが現状だろう。ただ不正行為なしに正しさを追求できないのは、今のひとみには理解ができない。

 けれどいつか、大人になれば分かる日が来るのだろうか。不正も仕方がないのだと、納得できる日が。

「結局のところ、私もただの駒だ。まあ、ここで終わるつもりもないがな」

 埃のついたスーツを叩きながら間宮が首を回す。

「少年少女、君たちがもしなにか警察にとって不利益なことをするのなら、十分に考えてからしたまえ」

 警告なのだろう、しかし誰も答えない。

 しばらく沈黙が続いたあと、間宮がやれやれと息を首を振る。

 ひとみは呼吸がし難くて大きく息を吸うと、岩下が少しだけ腕の力を弱めてくれた。

「間宮警部。水島くんをクビにしないでくださいね、彼は警察に必要な人ですから」

「あの馬鹿は確かに、ウジ虫が蔓延(はびこ)った警察内部に必要な人間だろうな。だが、敵も多い」

「そうですか」

 岩下が苦笑を返すと、間宮の表情が少しだけ歪む。

「岩下、お前の関わる事件、今後は少し手抜きに」

「結構ですよ。今の警察に捕まる気はさらさらないので」

 相手を見下しているようにも聞こえる岩下の言葉に、間宮は軽く眼を伏せた。

 床に捨て、既に火もついていないタバコの吸殻を意味なく足で踏む間宮。

「……あのとき、お前が名のある刑事だったなら、今は違っていただろう」

「もう過ぎたことですよ」

「全く、可愛げのない男だ」

 (あき)れたように少しだけ笑うと、間宮は裏口から出て行った。追うことはできただろう。

 しかし、岩下はそうしなかった。

「……二人とも、大丈夫ですか?」

 岩下の言葉に麻生は頷くが、ひとみを心配してか、どこか心細げだ。

「俺は大丈夫だけど、村田」

 未だ腕の中にいるひとみはもう泣いていないのか、しかし岩下の服を掴んだまま放さない。

「ひとみさん?」

「悔しいです」

 声色が感情を語っている。その声に優しさを返すことは岩下にも麻生にもできない。

「きちんと、みんなに本当のこと知ってほしい。けど……」

 他の人が不幸になる。他者の幸せを()ぎ取る。そんな権利が自分にあるとは思えない。

 ひとみはぎゅっと唇をかんで岩下を見上げた。

「だから、言い返せなかった。それが悔しいんですっ」

 小さな手が服を掴んだまま震えている。

 その手をやんわり取ると、ひとみは岩下を見て、しかし俯いてしまう。

「……覚えていてくれる人がいる、それだけで十分、私は幸せですよ」

 ただ、ひたすら甘い砂糖菓子のような岩下の言葉に、ひとみの眼からは収まったはずの涙がまた流れ出した。それを岩下は指で拭う。

「病院に戻りましょう」

 甘やかされているのが分かって、けれど、それが手放せないひとみは小さく頷いた。



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