三章ノ七
岩下と別れてどれほど経っただろうか、裏口までの廊下を歩きながら水島は胸元で鳴る携帯を手に取った。
発信相手は一之瀬だ。
「一之瀬か? キティはどうした」
「別れました。やることがあるとかで。水島刑事、キティは間宮警部に指示されているみたいです」
「そうか、間宮警部が」
間宮と聞いて水島が思い出せるのは、岩下とバディを組んでいたときのことだ。当時の上司が間宮だった。今では出世街道を歩き、上層部から高い評価を受けている人物。
彼に楯突けば、ゆくゆくは自身の出世を妨害することになるだろう。しかし、出世欲のない水島にとってそんなことはどうでも良かった。
「一之瀬、お前はどうしたいんだ?」
「ど、どうしたいかと問われても」
「なにか目的があって俺に電話してきたんだろ?」
先を急ぐべきだ。それは理解していたが、水島は足をとめた。
埃で汚れている窓越しに、大きな月が見える。雨はやんだのか、いつも聞こえる雨音がない。
「……キティを間宮警部と切り離せないでしょうか。今回の件、彼女が望んでやっているわけではないと思うんです」
「お前はそうしたいんだな?」
「――はい」
「わか――。一之瀬、あとでかけ直す」
階段から聞こえてくる足音に、それが誰かを推測すると水島は素早く携帯を閉じた。
間宮が水島の視界に入るのと、携帯が懐に戻るのはほぼ同時だっただろう。
こちらを見下げて眼を見開く間宮に、水島は張り切って声を出した。
「間宮警部、もうお帰りですか?」
「岩下の次は水島か。お前たちはどうしてそう面倒なんだ」
「張り込みとかの粘り強さは警部から学びましたからね」
「……あの頃はもう少し可愛げもあったが」
間宮は心底うんざりした表情で腕を組む。
そんな間宮とは反対に水島はできる限りの笑顔を作る。しかし、喜ばれるはずもない。「なにか用か? 岩下の件ならもう当人と話が終わっている」
「そうですか。なら、キティについての話でもしましょうよ」
「あれがどうした?」
「スパイの真似事、させてますよね。やめさせてもらえませんか?」
仁王立ちで踏ん張っているが、痺れそうだった。
間宮を恐ろしいと思っているのだろうか。武者震いであれば格好もつくが、怯えて震えているだけなら情けない。
上司で、自分に刑事とはなにかを説いてくれた先輩。憧れたときもあった、いつか自分も間宮のようになりたいと思ったこともあった。その間宮の両眼が水島を見据えている。「水島、交渉は対等な立場の者同士がすることだ。その話ではこちらに利益がない」
「手放す条件は?」
もとより、簡単に間宮が折れると思っていない水島は言葉を重ねた。交渉しなければ話も進まない。このような駆け引き作業はバディに任せきりだったことを今更ながらに後悔する。
数秒か、数分かが経った。
間宮が口を開く、そのタイミングを見計らったかのように遠くからヒールの音が響いてきた。
振り向けば、キティがこちらに向かってきているのが見える。
「おーい、間宮さん、終わった――って、なんでみずっちと話してるの?」
「いいところにきたな。水島が君と手を切れと言い出してな。どうだ? 君は我々と手を切りたいか?」
会話は任せると言わんばかりにキティへ話を振り、間宮はタバコに火をつける。
キティは水島を見て、しかめっ面をした。
「またみずっちのいらないお節介? ほんと懲りないね」
「お前はそんな場所にいるべきじゃない」
「そんな場所ってどこのこと?」
水島の言葉に、キティの眼が僅かだが揺れた。しかし次の瞬間には茶化すように、あちらこちらを見渡す。
そんな彼女を水島は真顔で制した。
「一度しか訊かない。そのままでいいなら俺を無視して間宮警部と帰れ。ただもし現状が嫌なら一言、なにか言え」
あらぬ方向を見ながら、ふてくされたように口を尖らせるキティ。
「なにかってなによ」
「よし分かった、嫌なんだな」
「え、ちょっとま」
「てなことで警部、トレードは俺でどうですか? 俺が立候補しますよ、スパイに」
あっけらかんと言う水島に、間宮が煙を燻らせ、灰を落とす。
「お前みたいな騒がしいのに、スパイ活動ができるわけないだろう」
「でもとりあえず志願だけしますね。確か諜報部って志願者は無条件で受け入れてましたよね、人材足りないからって」
「だから、お前みたいなのが来たら――」
そこまで言って間宮は言葉を切った。
薄く笑い、面白そうに眼を細める。
「なるほど、自分に来てほしくなければ彼女を手放せということか」
「みずっち、なに勝手に言ってんの!」
間宮との会話に入ろうとするキティだが、水島は有無を言わざず彼女を拘束した。
キティは暴れるが、水島の力が強いため腕から抜け出せない。
「俺は煩いですし、よく人に嘘ばれますよ」
「……そんな諜報部員はいらん」
「酷い上司だ。せっかくの立候補を」
自慢げに言うことではないが、水島は話を押し通した。ここで口ごもれば相手に言い包められてしまうに違いない。
もともと水島は口達者ではなく、感情のまま、ストレートに言葉を出すタイプだ。
それで相手を納得させられるかと訊かれれば、無理だろう。感情論など、合理主義の間宮の前ではゴミも同然。
しかし、間宮の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「……岩下の事件が公にならないなら、手元に置いておく理由もないか」
瞠目するキティを見据え、一度頷くと、間宮は水島へと向き直る。
「いいだろう。岩下に暴れられたり、お前に諜報部に入られたり、一之瀬がキレるより数倍マシだ」
「ちょ、間宮さん? あたし、お手伝い全然いいですよ? みずっちの言うことなんて聞かないで」
いきなり解雇を言い渡され、うろたえるキティ。
内心でガッツポーズをとる水島。
階段から降りてくる間宮。
月明かりが差し込む場所だからだろうか、場にいる全員が静寂をまとっているようだ。
雨の匂いがしない。
「谷本君、君ももう過去に囚われず生きればいい」
コツリと足音が一つ響く。
「警察内部にある谷本警視の不正資料は私の監視下だ。情報が漏れることはない」
コツリ、コツリと単調に繰り返される足音。
キティの眼前まで来ると彼女を見下ろし、苦笑する間宮。
そこには微かだが同情が混じっている。
「裏切られてもなお、父親を守ろうとする君を私は理解できずにいた。今もそうだ」
間宮は腕を伸ばし、キティの頭に置く。
その光景に、水島は岩下を思い出していた。岩下もよく、誰かの頭を撫でる。もし岩下の癖が間宮から移ったのだとしたらと、そう考えるとおかしかった。
突然触れられたキティは硬直し、動かない。
「だがそこまで娘に思ってもらえたのなら、谷本警視も報われるだろう」
一通り言いたいことを言うと再びタバコを咥え、間宮は歩き出す。
頼りになる背中だ。仲間であればついて行きたくなる。敵に回らなくて幸運だと水島は胸を撫で下ろした。
キティは間宮へ手を伸ばそうとして、やめる。
「なんで? どうなってんの?」
「どうだ、晴れて警察と手が切れた感想は」
「稼ぎ口が減った……」
「お前な」
間宮の後ろ姿が完全に見えなくなると水島はキティを腕から解放した。
支えがなくなったことで、地べたに座り込むキティ。
しばらくは無言が続いただろう。
音がない空間はどこか空虚で落ちつかない。
そんな水島の心の内を読んだのか、キティが歯軋りしながら暴れだした。水島の肩を力いっぱい握り締め、遠慮なく揺さぶる。
「あー、なんか釈然/(しゃくぜん)としない! もやもやするー!!」
「おい暴れんな!」
がくがくと揺さぶられながらも、顔がにやける。
そんな水島の表情を見て、さらにキティの顔に怒りが増した。見方によれば恥らっているようにも見えなくないが。
「絶対お礼なんて言わないからね!」
手荒く服を放すと水島から距離を取り、威嚇するような態度をとるキティ。
その姿はさながら保護されるのを嫌う野生動物のようだ。
苦笑しながら携帯を取り出し、リダイアルボタンを押す水島。
「期待してないっての。それに、もし礼を言う気になったなら、俺じゃなくて一之瀬に言え」
「なんで」
「なんでも」




