第1話 ちいさな学問の神様
「……また、C判定」
放課後の教室。
高校3年生の物部紗耶香は、返却された模試の結果を見つめて、深いため息をついた。
第一志望は、国立房総大学法学部。
決して手の届かない大学ではない。
しかし、合格できるという自信もない。
夏休みも毎日、一生懸命勉強した。学校の授業も真面目に受け、苦手科目の克服にも取り組んできた。
それなのに、何度模試を受けてもC判定から抜け出せないのだ。
「はあ……」
紗耶香は丸眼鏡を押し上げ、もう一度成績表を見つめた。
せめてB判定になれば、少しは安心できるのに。
(どうして、こんなに頑張っているのに……)
紗耶香は成績表を鞄にしまい、教室を出た。
いつもと少し違う道を通って帰る途中、ふと、小さな神社が目に入った。
「あれ……? こんなところに神社なんてあったかしら?」
住宅街の片隅に、古びた鳥居が立っている。
その奥には、小さな社。
参拝する人もいないのか、境内には落ち葉が積もっていた。
鳥居の脇には、古い案内板が立っている。
『学問の神 在原道真』
「……在原道真?」
聞いたことのない名前だった。
「菅原道真なら知ってるけど……」
それでも、学問の神様というのなら、今の自分にはありがたい存在かもしれない。
紗耶香は鳥居をくぐり、小さな賽銭箱に小銭を入れて手を合わせた。
(国立房総大学法学部に合格できますように……)
そして、もう一度心の中で付け加えた。
(もちろん、勉強はちゃんと頑張ります。だから、どうか力を貸してください……)
しばらく祈ってから、紗耶香は顔を上げた。
「……よしっ!」
気休めかもしれない。
でも、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
紗耶香は小さく頭を下げ、神社をあとにした。
その夜。
いつものように勉強を終え、紗耶香はベッドに入った。
そして、しばらくして――。
「おおっ! お主じゃな!」
「……えっ?」
気がつくと、紗耶香は白い霧の中に立っていた。
目の前には、昼間訪れた小さな神社。
そして、その前には、平安時代の貴族のような衣装を着た老人が立っていた。
「な、何? ここ……」
「よくぞ参ってくれた!」
老人は、たいそう嬉しそうに両手を広げた。
「久しぶりにお参りに来てくれた者がいてのう! 感激して、つい夢に現れてしまったんじゃ!」
「……夢?」
紗耶香は周囲を見回した。
なるほど。確かに夢らしい。
「ええっと……おじいさん、誰?」
「おじいさんとは何じゃ!」
老人は胸を張った。
「わしこそは、この地に祀られし学問の神、在原道真じゃ!」
「……在原道真?」
そういえば、今日お参りした神社に、そんな名前が書かれていた。
「菅原道真じゃなくて?」
「在原道真じゃ!」
「ふうん……」
紗耶香は首をかしげ、何気なくポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと調べてみようっと」
「む?」
検索すると、あっさりと人物紹介が見つかった。
――在原為過 ( ありわらのためすぎ )
平安時代中期の人物。東国に下った在原業平の庶子の子孫と伝えられる、房総地方の下級貴族。
地方では多少の学識をもって知られ、「田舎の道真」と呼ばれた。
その後、都に上ったものの、その学識は中央では通用せず、失意のうちに帰郷。目立った官職にも就けず、生涯を終えた。
後世、地元の小さな神社に学問の神として祀られるようになった。
「…………」
紗耶香はスマホから顔を上げた。
「在原為過……ありわらの、ダメすぎ?」
「ためすぎじゃ!」
老人が真っ赤になって叫んだ。
「ふうん。それで、どうして在原道真なんて名乗ってるの?」
「ふっふっふ。わしの類まれなる知性をたたえて、皆の者が道真と呼んだのじゃ!」
「でも、都では通用しなかったんでしょ?」
「う、うるさーーーい!!」
老人の絶叫が、白い霧の中に響き渡った。
紗耶香は、じっと老人を見つめた。
「……本当に学問の神様なの?」
「あ、当たり前じゃ!」
「それで、本当にご利益なんてあるの?」
「あ、あるわい!」
老人はぷんぷんと怒りながら、腕を組んだ。
なんとも頼りない神様だった。
しかし、紗耶香はふと思い出した。
今日は、この神社に大学合格をお願いしたのだ。
「あの……」
「何じゃ?」
「実は私、大学受験で悩んでいるの」
「ふむ。知っておるぞ。今日、わしに願ってくれたからのう」
「第一志望が国立房総大学の法学部なんだけど、どんなに頑張っても成績が伸びなくて……」
「うむうむ」
「何とかならないんですか?」
老人は、急に真面目な顔になった。
「ふむ……。お主が普段から努力しておることは、わしにも分かっておる」
「ほ、本当?」
「うむ。けっこう、けっこう。なかなか感心な娘じゃ」
紗耶香の顔が少し明るくなった。
「じゃ、じゃあ……!」
「うむ。おなごの願いなら、必ず学力を伸ばす力がある!」
「えっ!?」
紗耶香は思わず身を乗り出した。
「ほ、本当に!?」
「ただし、その力を使うには、わしにも相応の神力が必要でのう」
「神力?」
「ふっふっふ! よくぞ聞いてくれた!」
老人は、待ってましたとばかりに胸を張った。
「おなごが恥ずかしいことをしたとき、わしの神力が貯まるのじゃ!」
「……は?」
「まずは、試してみるがよい! さすれば、お主もわしの神力を知ることになろうぞ!」
「……本当に学力が上がるの?」
「無論じゃ! 神の名に懸けて約束しよう!」
紗耶香は考え込んだ。
どんなに頑張っても、C判定から抜け出せない。
本当に学力が上がるのなら……。
「……分かったわ。やってみる」
「おお! そうかそうか!」
「でも! もし学力が上がらなかったら、絶対に許さないんだから!」
「心配するでない! わしを信じるのじゃ! それと、神社へのお参りも忘れるでないぞ!」
「分かったわよ。でも……」
「何じゃ?」
「は、恥ずかしいことって、何をすればいいの?」
「それは自分で考えるんじゃ! 任せたぞい!」
「……はっ!」
紗耶香はベッドの上で目を覚ました。
見慣れた天井。
窓からは朝の光が差し込んでいる。
「ど、どうしようかしら……」
紗耶香はベッドの上で考え込んだ。
「恥ずかしいこと……恥ずかしいこと……」
あれこれ考えてみるが、どうすればいいのか分からない。
ただの夢だったのかもしれない。
でも、本当に学力が上がるのなら……。
机の上には、昨日返された模試の成績表が置かれていた。
C判定。
紗耶香は、ぎゅっと拳を握った。
「……大学に受かるためには、仕方ないわよね」
紗耶香は意を決して、パンツを脱いだ。
「…………」
自分の部屋で、誰も見ていない。
それなのに、妙に落ち着かない。
「うう……スースーするわね……」
紗耶香は顔を真っ赤にした。
「でも、これで本当に学力が上がるなら……!」
今日は学校で試験がある。
本当にご利益があるのかどうか、確かめるにはちょうどいい。
「これでテストの結果が悪かったら……」
紗耶香は、ぎゅっと拳を握った。
「あいつは、ただの変態爺で決定ね!」
こうして物部紗耶香の、誰にも知られてはならない奇妙な受験生活が始まったのであった。




