第十三話 穏やかな時間
新しい年を迎えてから、1週間ほどが過ぎた。
年始の挨拶や来客もようやく落ち着き、アヴェリア公爵邸には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
この日は、母は朝から体調がよく、父も仕事が休みだった。
家族で使う居間には暖炉の火が静かに揺れ、窓辺には母の好きな花が飾られている。
エマが3人分の紅茶を用意すると、一礼して部屋を出ていった。
年始の忙しさを終えた使用人たちも、ここ数日は交代で休みを取っているらしい。
広い屋敷の中は、いつもより少しだけ静かだった。
「こうして3人でゆっくりするのは、久しぶりね」
「そうだな。年が明けてからは、ずっと慌ただしかったからね」
「私も、今日は楽しみにしてたの」
ルーチェは2人の間に座り、嬉しそうに笑った。
特別なことをするわけではない。
ただ3人で紅茶を飲んで、話をするだけ。
それでもルーチェにとっては、大切な時間だった。
「そういえば、ルーチェ。最近のお勉強はどう?」
母に尋ねられ、ルーチェは少し考えた。
「歴史と語学は、先生に褒めてもらったの。それから、お花のお世話も前より上手になったの!」
「あら、それはすごいわね」
「うん!」
褒められて嬉しくなり、ルーチェは笑顔で頷く。
けれど、すぐに少しだけ困った顔になった。
「でも……ダンスは、まだ難しくて」
父が小さく笑う。
「始めたばかりなんだから、焦る必要はないよ」
「分かってるんだけど、足を気にすると姿勢が悪くなって、姿勢を気にすると今度は足が分からなくなっちゃうの」
母が口元に手を添えて、くすくすと笑った。
「少しずつ覚えていけばいいのよ」
「うん。少しずつ練習して、もっと上手になりたいな」
そう言ってから、ルーチェはもう1つ思い出した。
「それから……お裁縫も、まだあまり上手にならないの」
「あら」
母が楽しそうに首を傾げる。
「先生には教えてもらってるんだけど……どうしても、縫い目が曲がっちゃうの」
ルーチェは少しだけ頬を膨らませた。
「お母様はお裁縫が上手でしょう? 今度、元気な日にコツを教えて?」
「もちろんよ。一緒にやりましょう」
「嬉しい!」
ルーチェの顔がぱっと明るくなる。
その様子を見ていた父が、穏やかに笑った。
「ルーチェは、この1年でずいぶんいろいろなことに挑戦するようになったね」
「そうかな?」
「ああ。少し前までは、本を読んでいるだけで1日が終わってしまうこともあっただろう?」
「……今もあるよ」
正直に答えると、父と母が同時に笑った。
「だって、本は面白いんだもの」
「それは知っているよ」
父の言葉に、ルーチェも笑う。
それから、ふと思い出したように父を見た。
「そうだ、お父様」
「なんだい?」
「今度また一緒に外国へ行くとき、もし時間があったら、行きたいところがあるの」
父が少し意外そうに目を瞬く。
「もちろん構わないが……どこなのかい?」
「この前、お父様からもらった本に出てきた場所を、実際に見てみたいの」
ルーチェは目を輝かせた。
「本には街の様子や建物のことが書いてあったんだけど、読んでいたら、本当はどんなところなのか気になっちゃって」
「なるほど」
「絵で見るのも楽しいけど、自分の目でも見てみたいの」
父はそんな娘を見つめて、嬉しそうに微笑んだ。
「分かった。今度、都合が合えば一緒に行こう」
「ありがとう、お父様!」
嬉しくなって声を弾ませると、母が優しく微笑んだ。
「ルーチェは、本当にいろいろなことに興味を持つようになったわね」
「うん。とーっても楽しいもの」
ルーチェはそう答えてから、少し考えた。
「それに……最近は、前より少しだけ、人とお話しするのも得意になった気がするの」
「まあ」
「以前は、知らない方とお話しするのは苦手だと言っていたものね」
「今でも少し緊張するけど、前よりは大丈夫」
ルーチェは照れたように笑った。
「新しいお友達もできたから」
「レオルカさまのことかい?」
父に尋ねられ、ルーチェは頷いた。
「うん」
そして、自然と表情が明るくなる。
「レオルカさまは本がお好きだから、お話ししてるととても楽しいの。私が読んだことのない本も知ってるし、同じ本でも、私とは違うところが気になったりするんだよ」
「それは楽しそうね」
「うん!」
ルーチェは嬉しそうに頷く。
「本のお話をしてると、時間がすぐに過ぎちゃうの」
母はそんな娘を見て、柔らかく微笑んだ。
「素敵なお友達ができて、よかったわね」
「うん」
ルーチェにとって、それはとても嬉しいことだった。
今まで本の話をする相手は、大人たちが多かった。
もちろん、それも楽しい。
けれど、自分とそれほど年の変わらない相手と、同じ本について話すのは少し違った。
知らなかったことを教えてもらったり、自分が好きなところを話したり。
そして時には、同じところを読んでいるのに、まったく違うことを考えていたりする。
それがルーチェには、とても面白かった。
しばらく3人で話していると、不意に母が静かに口を開いた。
「……ルーチェ」
「なあに?」
「いつも、私の体調のせいで、一緒に過ごせない日も多くて……ごめんなさいね」
先ほどまで笑っていた母の顔に、ほんの少しだけ申し訳なさそうな色が浮かんでいた。
ルーチェは母を見つめる。
寂しくないと言えば、嘘になる。
母が部屋で休んでいる日は、話しかけに行くこともできない。
一緒にお茶をしたいと思う日もある。
けれど――。
「お母様が謝ることじゃないよ」
ルーチェはそう言ってから、少し考えた。
「……寂しいときは、あるよ」
母がわずかに目を伏せる。
だからルーチェは、その手にそっと自分の手を重ねた。
「だからね」
ルーチェは母を見上げて、にこっと笑った。
「元気な日は、今日みたいに一緒にいてほしいの」
母は少し驚いたように目を瞬いたあと、優しく笑った。
「ええ。もちろんよ」
「約束だよ?」
「ええ、約束」
それを聞いて満足したルーチェは、ふと隣へ顔を向けた。
そこには、穏やかな顔で2人を見ている父がいる。
ルーチェはじっと父を見つめた。
「……お父様も!」
「私もかい?」
突然話を向けられ、父が目を丸くした。
「うん。だって、お父様もお仕事ですぐいなくなっちゃうでしょう?」
「それは……」
「だから、お休みの日は今日みたいに一緒にいてほしいの」
父は困ったように母を見る。
母は楽しそうに笑っているだけで、助けてくれる様子はない。
「……分かった。約束しよう」
「本当?」
「ああ。できるだけ、ね」
「“できるだけ”なの?」
ルーチェが少し不満そうにすると、母がとうとう声を上げて笑った。
父も困ったように笑い、ルーチェもつられて笑う。
暖炉の火が、ぱちりと小さな音を立てた。
外は冬の冷たい空気に包まれている。
けれど、3人で過ごす部屋の中は、どこまでも暖かかった。




