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第一話 図書館で出会ったひと

 アステリア王国の王宮には、王族のために設けられた大きな図書館がある。


 歴代の王たちが集めた古い書物から、他国の歴史、政治、文化、芸術に関する専門書まで。


 王宮の中でも特に静かで、そして限られた者しか足を踏み入れることのできない場所だった。


 その日、10歳のルーチェ・アヴェリアは、父とともに王宮を訪れていた。


 公爵である父・アレクシスは、王家から厚い信頼を寄せられ、国政や外交に関わる重要な役目を担っている。


「ルーチェ、私は少し用があるから、終わるまで好きなところで待っていなさい」


 ルーチェは素直に頷いた。


 王宮には何度か来たことがある。


 そして、ルーチェがこういうときに向かう場所は決まっていた。


「……図書館に行ってきてもいいですか?」


「ああ。くれぐれも迷惑をかけないようにね」


「分かっています」


 小さく笑って、ルーチェは父と別れた。


 廊下を進み、重い扉の向こうへ入る。


 途端に、外とは違う静けさが広がった。


 高い天井。


 壁一面に並ぶ本棚。


 大きな窓から差し込む光が、長い机の上に柔らかな影を落としている。


 ルーチェは本棚を見上げ、ゆっくり歩いていった。


 図書館は好きだ。まだ知らない世界をたくさん見せてくれる。


 聞いたことのない言葉、見たことのない芸術、知識と感性を広げてくれることがたまらなく楽しい。


「……これ、読んでみようかな」


 手を伸ばしたのは、1冊の分厚い本だった。


 表紙には、古い文字で題名が記されている。


 王国間の外交史。


 10歳の子どもが読むには、難しい内容だった。


 ページを開くと独特な本の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。


 この香りが、ルーチェは好きだった。


 手に取った本は文字ばかりが並んでおり、挿絵もほとんどない。


 ルーチェ自身も、少し眉を寄せた。


「……難しそう」


 それでも、本を閉じることはなかった。


 分からない言葉があれば前後の文章から意味を考える。


 知らない出来事があれば、別の本で調べる。


 そうやって、1ページずつ読み進めていく。


 気付けば、周囲のことはほとんど気にならなくなっていた。


 ページをめくる音と、目の前の文章だけが意識の中に入ってくる。


 その姿を――


 少し離れた場所から、1人の少年が見ていた。


 12歳のレオルカ・ヴァレンティス。


 アステリア王国の王太子である。


 彼は図書館へ入ってきたところだった。


 そして、見知らぬ少女の姿に気づいた。


「…………」


 レオルカは足を止め、怪訝そうに少女を見る。


 ――誰だ?


 王族しか使わないこの図書館に、見知らぬ少女がいる。


 しかも、護衛も侍女も近くには見当たらない。


 レオルカの中に、わずかな警戒心が生まれた。


 知らない人間が、勝手にここへ入ることなど普通はない。


 まして――女性だ。


 これまでレオルカが目にしてきた女性たちは、王太子である自分に近づこうとする者も多かった。


 笑顔を向けられることにも、褒められることにも、もう慣れている。


 けれど、身分や立場に媚びるような態度を向けられるのは好きではなかった。


 だからこそ、目の前の少女が周りを気にせず、本を読んでいることが妙だった。


「…………」


 レオルカは、少女が読んでいる本へ視線を向ける。


 そして、わずかに目を見開いた。


「……それを?」


 思わず声が漏れる。


 少女が顔を上げた。


「……?」


 大きな瞳が、まっすぐこちらを見る。


 レオルカは少し眉を寄せた。


「君は誰だ?」


 レオルカは問いかけながら、彼女を見つめた。


 少女は一瞬だけ目を瞬かせる。


 けれど、慌てることなく椅子から立ち上がった。


「ルーチェ・アヴェリアと申します」


 そして、きちんと一礼する。


「レオルカさま。ごきげんよう」


「……アヴェリア? 君はなんで僕のことを知っているの? それに、どうしてここにいるの?」


 その名には聞き覚えがあった。


 王家を支える有力な公爵家。


 つまり、この少女は不審者ではない。


 けれど、それならなおさら疑問だった。


「王族の方々については、教育の中で教えていただいています。ここには、父と一緒に来ています。父がお仕事をしている間、こちらで本を読んで待っていていいと言われました」


「……そう」


 淡々と答え、すぐに本へ視線を戻す彼女をレオルカは不思議そうに見つめた。


 そして、もう一度、彼女の手元の本を見る。


「それ、面白い?」


「え?」


「その本」


 ルーチェは本の表紙を見る。


「……まだ難しくて、全部は分かりません」


「じゃあ、どうして読んでるの?」


 ルーチェは少し考えた。


「分からないから……知りたいんです」


「…………」


「この時代のこと、もっと知りたくて」


 そう言って、ルーチェは本を開く。


「ここが少し分からなくて……でも、こっちの記録を読むと、もしかしたら意味が分かるかもしれないと思って」


 レオルカは黙った。


 自分でも読むのを嫌になるほど難しい本だ。


 王太子として勉強するために手に取ったことはある。


 けれど、面白い本だとは思わなかった。


 それを、この少女は――


 分からないから知りたいと言った。


「…………君」


 レオルカは、もう一度ルーチェを見る。


 さっきまであった警戒心が、少しだけ薄れていた。


「……変わってるね」


「そうでしょうか?」


 ルーチェは本当に分からないという顔をした。


「うん」


 レオルカは答えながら、なぜか目を離せなくなっていた。


 綺麗だから――というわけではない。


 もちろん、少女が整った顔立ちをしていることには気づいている。


 それよりも……どうしてこんな本を読んでいるんだろう。


 どうして、分からないことを楽しそうに追いかけているんだろう。


 そのことのほうが気になった。


「……少し、見せて」


「はい」


 ルーチェは素直に本を差し出した。


 レオルカは隣の席に腰を下ろす。


「この部分?」


「はい。ここです」


「これは……」


 二人の間で、本を挟んだ会話が始まった。


 歴史について。


 国について。


 書かれていることについて。


 分からないことについて。


 ルーチェは知っていることを話し、レオルカの考えを聞いてみる。


 いつの間にか、最初に感じていた不信感は消えていた。


 それどころか。


 もっと話していたいと思っていた。


 しばらくして、廊下から声が聞こえた。


「ルーチェ」


「……お父様」


 ルーチェが顔を上げる。


 図書館の入り口に、アレクシスが立っていた。


「そろそろ戻ろう」


「はい」


 ルーチェは立ち上がり、本を閉じる。


 そしてレオルカへ向き直った。


「レオルカさま。今日はありがとうございました」


「……うん」


 アレクシスがレオルカに気づき、静かに頭を下げる。


「レオルカ殿下。娘がお邪魔していたようで、失礼いたしました」


「大丈夫だよ、アレクシス公爵」


 レオルカはそう答えた。


「僕も……楽しかったから」


 ルーチェが少し嬉しそうに笑う。


「それでは、また」


「…………」


 レオルカは、その背中を見送った。


 扉が閉まる。


 静かな図書館に、1人残される。


 レオルカは、先ほどまで二人で読んでいた本を見る。


 そして、ふと気づく。


「……また、会いたいな」


 自然に、そう思った。


 理由はまだ分からない。


 ただ、今まで会ってきた誰とも違った。


 王太子だからでもない。


 家柄でもない。


 綺麗だからでもない。


 ただ――


 あの子のことを、もっと知りたい。


 その気持ちが何なのか。


 12歳のレオルカには、まだ分からなかった。

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