第98話:セレスティアへの強行軍 ―― 予兆の影
【舞台:セレスティアへ続く険しい山道 ―― 夕暮れ】
エルムの街の柔らかな陽光が、背後で山脈の端に隠れた。境界線を一歩越えた瞬間、大気の質感が劇的に変質する。それは単なる気温の低下ではない。聖教国セレスティアへと続く巡礼の道は、標高が上がるにつれて険しさを増していく。エルムの穏やかな陽光は遮られ、切り立った断崖の間を「聖女の嘆き」と呼ばれる凍てつく突風が吹き抜けていた。
アスカ、シュシュ、そしてルナレイラの三人は、徒歩で進んでいた。追手を撒くため、そしてアスカがこの土地の「魔力地場」を直接計測するためである。
その過酷な環境に、場違いなほど神々しく、そして暴力的なまでの美しさを放つ影があった。
「最強の法衣」と定義した純白のドレスを纏っているアスカだ。 幾重にも重ねられたシルクには、アスカ自身の手によって、不可視の魔導演算回路が銀糸で刺繍されていた。彼女が歩くたびに、ドレスの裾から微かな演算火花が散り、周囲の冷気を物理的に「拒絶」している。
「……アスカ様、その格好で登山は流石に目立ちすぎですニャ」
「黙って、シュシュ。これは単なる服じゃない。外界の魔力干渉を99.8%遮断し、私の演算処理速度を1.5倍に引き上げるための『外装型演算器』よ。敵地へ乗り込むのに、正装で行かない理由がないわ」
アスカは冷然と言い放ち、ドレスの袖を整える。その後ろを、泥に汚れ、疲労困憊の体でついてくるのが、至高の聖女、ルナレイラだった。
「……はぁ、はぁ……」
ルナレイラの呼吸は、荒い。聖衣の裾は泥で汚れ、髪も乱れている。だが、彼女の瞳には以前のような「死への渇望」ではなく、未知の恐怖と微かな期待が混在していた。
「アスカ様、鼻がツンとするですニャ。エルムの美味しいパンや花の匂いが、無理やり押し殺された『祈り』の、澱んだ匂いに塗り替えられていきますニャ。……さらにあっちの方は、もっと最悪な匂いがしそうですニャ」
アスカの肩の上で、シュシュが不快そうに耳を伏せ、風下に鼻を向けた。魔力の匂いを嗅ぎ分ける彼の感覚は、これから向かう聖教国の中枢が、どれほど不衛生な因果に満ちているかを正確に予感していた。
「休憩するわ。シュシュ、周囲の警戒を」
「了解ですニャ! 野生の勘で、変な司教たちが来ないか見張るニャ」
アスカが指先を弾くと、空間の座標が書き換えられ、突風を遮断する幾何学的な結界が展開された。小さな焚き火が用意され、三人はその温もりに身を寄せる。
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【舞台:焚き火を囲んで ―― 夜の帳】
「……はぁ、はぁ……」
ルナレイラは力なく地面に座り込んだ。聖衣は汚れ、髪も乱れている。一方で、最前線で結界を維持しているアスカの白いドレスは、埃一つついていない。
「……ルナレイラ、疲れたでしょう。スープを飲みなさい」
アスカは携帯用の熱源で温めたスープをルナレイラに差し出した。
「……ありがとうございます。アスカ様……。あなたは、なぜそんなに強いのですか? その白いドレスのように、少しの汚れも、少しの痛みも受け付けない……まるで、神様が作った完璧な計算機のようです」
ルナレイラは、爆ぜる火を見つめながら、ぽつりぽつりと過去を語り始めた。
「……私は、拾われた時から『聖女』という名前の部品でした。20年以上、白銀の塔の最上階で、ただ人々の痛みを自分の身体に流し込み、それを『愛』だと教え込まれてきた。……泣くことは許されませんでした。私が涙を流せば、魔法の圧力が変わり、肩代わりしている数万人分の病が、激痛となって私を焼き殺すから」
彼女の手が、微かに震える。
「司教様は言いました。『お前が完璧であれば、国は安泰だ。お前が消える時、それは世界で最も美しい献身になる』と。……私は、自分の死を美化することでしか、毎秒襲いかかる激痛から正気を保つことができなかったんです」
「……非論理的な教育ね」
アスカは白いドレスの袖に触れながら、冷徹に、しかしどこか苛立ちを込めて言った。
「一人の犠牲に依存する安定なんて、設計者の倫理欠如を証明しているだけ。あなたが23年間耐えてきたのは『愛』じゃないわ。単なる『システムの不備』よ。……そんなゴミ溜めのような役割、私の前で誇りに思わないで」
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【舞台:大地を揺らす咆哮 ―― 深夜】
その時だった。 大地が底から震え、遠くセレスティアの方向から、空気を引き裂くような咆哮が響いた。それは数万人の怨嗟が重なり合ったような、魂を削る不協和音。
「……! 来たわね」
アスカが立ち上がる。白いドレスが魔力の高まりに呼応して青白く発光し、彼女の周囲に不可視の防壁が展開される。
「……聖獣、オブリビオン……。私の体内の『痛み』が、外側の『影』と共鳴しようとしている……」
ルナレイラが胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。彼女の瞳からは涙が溢れ、身体からは呼応するように黒い魔力が漏れ出す。
「ルナレイラ、私を見なさい」
アスカは膝をつき、ルナレイラの肩を強く掴んだ。純白のドレスが、泥にまみれたルナレイラの視界を塗りつぶす。
「……『聖女ルナレイラ』。その仰々しい名前は、今この瞬間、私の演算機からデリート(削除)したわ。あなたが背負わされた、他人の人生の一部としての名前なんて、私の世界には必要ない」
「え……?」
アスカは、ルナレイラの頬を指先でなぞり、溢れ出す涙を拭った。そしてルナレイラの身体から溢れ出す黒い魔力は、物理的な魔力操作で強引に消し去った。
「これから、あなたのことはレイと呼ぶわ。……聖女でも、身代わりでもない、ただの一人の女性としての識別名よ。……いいわね、レイ。あなたの『散り際』をゴミ箱に捨てて、私の演算に乗りなさい。あなたを縛る聖教国のデタラメなプロットなんて、私の前ではただの『落書き』よ」
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【ラストシーン】
「レイ……」
ルナレイラ――レイは、その響きを噛みしめるように呟いた。 23年間、役割でしか呼ばれなかった彼女に与えられた、初めての自由な名前。アスカが発する『言葉の熱量』が暴力的なまでの救済となって流れ込み、彼女が見ていた色のない世界が、パキパキと音を立てて融解し始める。
レイは涙で滲む視界を拭おうともせず、自分を人間として定義し直してくれた賢者を見上げた。
「……はい。……アスカ様。私の、……凍りついたままの人生。あなたの……その美しい計算で、……思い通りに、動かしてみてください」
アスカは不敵に微笑み、立ち上がった。純白のドレスが夜風にたなびき、星空よりも眩しく輝く。
「シュシュ、最大加速。夜明けまでにセレスティアの喉元まで行くわよ。……神様が書いたデタラメな台本を、この『白いドレス』で完膚なきまでに書き換えてあげる」
月光の下、純白のドレスを纏った賢者と、名前を取り戻した少女、そして黒猫は、呪われた聖教国へと向かって力強く歩み出した。アスカが通った後には、一欠片の「痛み」すら存在を許されない、清浄な魔力の軌跡だけが残されていた。




