第97話:司教の来訪 ―― 歪んだ最適解
【舞台:深夜の古本屋『VOID』 ―― 表通り】
崩壊した『方舟の庭』から、泣き崩れるレイ(ルナレイラ)を抱えて『VOID』へ帰還して間もなくのことだった。エルムの街を包む穏やかな夜気が、突如として刃物のような鋭い冷気に塗り替えられた。
店の奥でレイを休ませていたアスカが、ふっと視線を扉へ向ける。
店の外から、整然とした、けれどどこか「死んだような金属音」が近づいてきた。 カウンターの上で、シュシュが激しく鼻をひくつかせ、喉の奥で低く唸る。
「アスカ様、また嫌な匂いですニャ。何万人分もの苦痛を煮詰めて、冷たい『管理』で蓋をしたような……鼻が腐りそうな澱の匂いがするですニャ」
「……計算外の訪問者ね。夜更かしは肌に悪いわよ、お爺さん」
アスカが冷ややかに言い放つと同時に、店の扉が音もなく左右に割れた。
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【舞台:VOID店内 ―― 大聖堂の主 歪んだ管理の質感】
白銀の鎧に身を固めた聖教国騎士団が、瞬く間に『VOID』を包囲する。その中央、一際巨大な白馬から降り立ったのは、豪華な法衣に身を包んだ、痩躯の老人だった。
「無礼な娘だ。聖教国セレスティア、最高司教グラシウス様を前になんたる不遜」
傍らの騎士が剣を抜きかけるが、老司教グラシウスは枯れ枝のような手でそれを制した。その瞳は、信仰の熱狂よりも、すべてを冷徹な効率で判断する冷酷な光を宿している。
グラシウスが一歩踏み出すたびに、入り口に飾られていた花が、熱を奪われたようにシュルシュルと黒ずんでいく。 彼が纏うのは威厳ではない。それは、他者の命を『部品』としてしか見ない、冷徹なまでの「管理の重圧」だった。
「構わん。……賢者アスカ。我が国の『至高の宝』を、随分と無残に扱ってくれたようだな」
アスカは腕を組み、司教を真っ向から冷徹に見据え返した。
「宝? 笑わせないで。あの子を激痛のゴミ捨て場に改造した張本人が、よく言うわ」
アスカの言葉が物理的な魔力波となって放たれ、並み居る騎士たちの鎧をキィィンと震わせる。
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【舞台:VOID店内 ―― 緊迫の会談】
グラシウスはアスカの皮肉を柳に風と受け流し、案内も待たずに店内へ足を踏み入れた。カウンターに座り込むルナレイラ――その瞳から涙の跡が消えず、魔力が乱れている姿を見ても、彼の表情には慈悲の一片も浮かばなかった。
「ルナレイラ。君の『精神安定術式』が物理的に破壊されたと聞いた時は耳を疑ったが……無様だな。至高の聖女が、感情という名の汚泥に塗れるとは」
「司教……様……。私は……」
震えるルナレイラを、リサが「ちょっと! あんた、あの子がどんな思いで……!」と怒鳴りつけるが、グラシウスの威圧感に言葉を詰まらせる。
「リサ、下がっていなさい。……それで、グラシウス。わざわざ軍勢を引き連れて、何の御用かしら? 私の論理を聴講しに来たの?」
アスカが冷たく問いかける。グラシウスは皮肉げな笑みを浮かべた。
「論理だと? 賢者よ、お前がやっていることは、巨大なダムの防壁に穴を開ける愚行だ。我らセレスティアの教義こそが、この世界における『最適解』なのだよ」
「最適解? 数万人の苦痛を一人の人間に押し付けることが?」
「そうだ」
グラシウスは迷いなく断言した。
「一人の犠牲で、万人が救われる。一人が地獄を舐めることで、国が楽園となる。これ以上に効率的で、論理的な統治があるか? 感情論でこの天秤を壊せば、溢れ出した苦痛はエルムの街をも飲み込むぞ」
「……バカげてるわ」
アスカの瞳に、静かな、しかし苛烈な怒りが宿る。
「一人の犠牲に依存する安定は、単なる設計ミスよ。変数が一つ壊れただけで崩壊するシステムを、最適解だなんて呼ばないで。……それは、ただの『手抜き』よ」
「手抜き、だと……?」
グラシウスの眉がぴくりと動く。
「ええ。全国民の魔力網を統合し、苦痛を微細な単位に分散・処理する演算能力があなたたちにはなかった。だから、最も適性の高い個体を『隔離壁』にして臭いものに蓋をした。……その稚拙な演算を正義と呼ぶのは、私のプライド(計算機)が許さないわ」
「口が過ぎるぞ、小娘。お前の言う『分散』など夢物語だ。人は、他人の痛みなど背負いたくないものだ。だから、聖女という偶像にすべてを預け、祈るのだ」
グラシウスが立ち上がり、杖を石畳に突く。
「ルナレイラは我らの元に戻す。彼女は聖獣オブリビオンを鎮めるための『殉教』という結末をもって完成するのだ。それが彼女にとって、最も美しい救済となる。仮に戻らない場合は……代わりの器はいくらでも用意できる。『聖女』という役割は不変なのだ」
グラシウスが杖を地面に突くと、店内に不吉な「死の匂い」が一段と強まった。
「……そのどちらも却下よ」
アスカがルナレイラの前に立ち塞がった。
「この子の所有権(ルート権限)は、今、私が預かっている。……そして、グラシウス。一人の犠牲に依存するあんたの『手抜き』な数式、私がセレスティアの地で直接デバッグしてあげるわ」
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【ラストシーン】
「……ほう。聖教国の聖域に、自ら乗り込むと言うか」
グラシウスの瞳に、殺意と感嘆が混じる。
アスカは、カウンターで欠伸をしていた黒猫を見やった。
「シュシュ。準備をなさい。……これより、敵地での強制執行を開始するわよ」
「了解ですニャ、アスカ様! このお爺さんの加齢臭が染み付いた空気とも、これでおさらばですニャ!」
アスカは、恐怖に震えるルナレイラの手を、逃がさないよう強く握りしめた。
「ルナレイラ。……あなたの『最強の散り際』なんてプロット、私が今この瞬間にゴミ箱へ捨ててあげたわ。これから私が、世界で一番泥臭く、そして最高に不敵な『生存』を書き込んであげる。……いいわね?」
レイは、涙で濡れた瞳をアスカに向け、小さく、しかし初めて「聖女」としてではなく、一人の人間としての意思で頷いた。
グラシウスは冷たく笑い、背を向けて店を出ていく。
「よかろう。セレスティアの地で待っているぞ、賢者よ。お前の『論理』が、聖女が背負う数万人の絶望という重圧に耐えられるか……精々、試させてもらおう」
暗闇に消えていく騎士団の列。 アスカは、嵐の予感を孕んだ夜風に黒髪をなびかせながら、狂った天秤の向こう側にある「聖教国」の方向を、鋭い眼差しで見据えていた。




