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第55話:黄金の親書と拒絶の論理

【舞台:古本屋『VOID』・リビング】


 エルムの街を閉ざしていた深い雪が解け始め、軒先からは春を告げる雫の音がリズムを刻んでいる。 しかし、古本屋『VOID』のリビングに流れる空気は、冬の吹雪よりも重苦しかった。アスカは、こたつの天板に広げられた一通の書簡を、まるで未知のウイルスを分析するかのような忌まわしげな目で見つめていた。


「……リサ。教えて。この羊皮紙から漂う、鼻を突くような高級な香料の成分を。私の嗅覚受容体が、これを『傲慢』というカテゴリーに分類しているわ」


「香料? ああ、それは帝国最高級の『竜涎香』よ。……って、アスカ、顔が怖すぎるわよ」


 リサが苦笑しながらハーブティーを置くが、アスカの視線は書簡の黄金の封蝋――帝国の紋章である双頭の鷲に向けられたまま動かない。


「差出人は、隣国の皇帝ゼノス・フォン・アルカディア。……内容は、私を帝都魔導大学の『客員教授』として招聘したいという、厚顔無恥な勧誘。……しかも、今日中に返答がない場合、エルムへ供給している魔力ラインの『定期点検』という名の遮断を示唆している。……支離滅裂だわ。国家の長が、一介の賢者を誘うために公共インフラを人質に取るなんて」


 アスカは、ドレスの袖から出した指先で、書簡の行間をなぞる。


「……さらに不快なのは、この追伸よ。……『リサ、君に振られた日の夜に見た月は、今も私を狂わせる。君が選んだその小さな街が、私の退屈を癒やす新たな叡智を隠しているのなら、私は喜んでエルムの雪を溶かしに行こう』」


 静寂。 そして、リサが持っていたトレイが、ガチャンと音を立てて揺れた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【過去のデバッグ】


「……ゼノス。あの、変態皇帝……! まだそんなこと言ってるの!?」


 リサが叫び、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。アスカは冷ややかな目でリサを見上げる。


「リサ。説明を要求するわ。あなたの『過去のデータ』に、皇帝との接点なんて記録されていないけれど」


「言うわけないでしょ、黒歴史なんだから! ……いい、アスカ。あいつは私が王都の魔導騎士団にいた頃、権力と美辞麗句を総動員して言い寄ってきた男よ。……完璧な愛を証明するとか何とか言って、最終的に『私の知性は、君という不確定要素を愛するように設計されている』なんて抜かしたから、思いっきり振ってやったのよ!」


「……はぁ。やっぱり、その手のノイズね。論理を私物化し、他者の境界線を侵犯する……私の最も嫌うタイプだわ」


 アスカは無造作に書簡を丸め、暖炉に投げ込もうとした。


「決めた。招聘は拒絶。エルムの魔力供給については、私が一時間以内に代替の独立魔力炉を再構築する。……この皇帝、私の脳内メモリを1バイトたりとも割くに値しない、純度100%の『不要データ』だわ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【予期せぬエラー】


 その時だった。 古本屋『VOID』の表扉が、音もなく、けれど圧倒的な優雅さで開かれた。 ベルの音さえ鳴らさない、完璧なまでの所作。


「――おや。焼却されては困るな。その手紙には、私の心臓の鼓動(クロック数)を同期させて書いたのだから」


 春の陽光を背負い、リビングに踏み込んできたのは、純白の軍服に身を包んだ、眩いばかりの金髪の紳士だった。 背後には、彼が連れてきた極低温の魔導によって「強制的に溶かされた雪」の蒸気が、幻想的な霧となって立ち込めている。


「ゼ、ゼノス……!?」


 リサが絶句する。


「久しぶりだね、リサ。……君が選んだ街は、少しばかり湿気が多いようだ。だが、その隣に座る『叡智』の輝きは、湿り気すらも光の屈折に変えるほどに美しい」


 男――皇帝ゼノスは、優雅に手袋を脱ぎ、アスカに向かって深々と一礼した。その仕草一つ一つが、計算され尽くした芸術品のように隙がない。


「初めまして、賢者アスカ。……私の退屈な人生に、ようやく解き甲斐のある『難問』が現れたことを、神に感謝しよう」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 アスカは、こたつの中から出ることなく、鋭い視線で皇帝を射抜いた。 最先端の論理を持つ賢者と、すべてを掌握する皇帝。 春の柔らかな光が差し込むリビングで、二つの異質な知性が激突し、火花を散らす。


「……私の前で『退屈』なんて言葉を口にしないで。……その傲慢な数式を、今すぐ私の視界からデバッグしてあげましょうか?」


 アスカの白銀のドレスが、怒りに呼応して微かに明滅する。 対するゼノスは、その毒舌を極上のワインでも味わうかのような悦びの表情で受け止め、不敵に微笑んだ。


「素晴らしい。……君のその拒絶こそが、私にとって最高の『招待状』だ」


 古本屋『VOID』の日常が、一人の「変態的なカリスマ」の来訪によって、春の嵐へと飲み込まれていく。 史上最も知的な、そして最も不毛な「国家交渉」の幕が上がった。


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