第37話:揺れる密室の演算
【舞台:王都直轄地・特使専用の馬車内】
エルムの街を出発して数時間。特使が用意した馬車は、内装に深紅のビロードが張られ、衝撃を吸収する魔導サスペンションが組み込まれた最高級品だったが、アスカにとっては苦行の檻でしかなかった。
「……計算が合わない。コルセットによる横隔膜の圧迫が、魔力回路の冷却効率を想定より2.8%低下させているわ。おまけに、このスカートの容積……馬車内の自由空間の40%を占有している。論理的に見て、この衣装での長距離移動は欠陥設計よ」
アスカは眉間に皺を寄せ、膝の上に広げた魔導書に視線を落としたまま、不機嫌そうに呟いた。
「いいじゃない、アスカ。あんた、鏡で見た自分の姿に相当見惚れてたでしょ? 多少の不便は『美の税金』だと思って諦めなさいよ」
向かいの席に座るリサは、特使が隠していた高級ワインを勝手に開け、揺れる車内で器用にグラスを傾けていた。琥珀色の瞳は、不機嫌な弟子を肴に楽しんでいるように見える。
「……見惚れてなどいないわ。光学的反射率を確認しただけよ。……それよりリサ、さっきから不自然な魔力の揺らぎを感じるわ。前方3キロ地点、王都の検問所を通過する直前のこのエリア……魔力濃度の分布が偏っている」
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【師弟の密談】
アスカの指摘に、リサもワイングラスを回す手を止め、窓の外の景色へ視線を流した。
「へぇ、よく気づいたわね。アスカを試そうっていう王都の連中の『ご挨拶』かしら。感覚を狂わせる『感覚の迷宮』……それも、かなり大規模なやつね」
「王都の保守派、あるいは魔導院の連中ね。……リサ、今の私はこのドレスのせいで、複雑な身体動作を伴う術式展開が制限されているわ。袖のレースが魔力伝導のノイズになる」
「あら、師匠を頼る気になった? 可愛いじゃない」
「……違う。あなたがワインを飲んで遊んでいる間に、私が一人でリソースを消費するのが非論理的だと言っているのよ。……来るわ。空間の歪みが閾値を超えた」
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【揺れる密室の迎撃】
突如、馬車の窓の外の景色がぐにゃりと歪んだ。街道が消え、底なしの闇が広がろうとする。御者や馬さえも、この幻影に取り込まれつつあった。
「……リサ。あなたは左側の窓から魔力を放出し、迷宮の周波数を飽和させて。私がその隙にシステムの最深部を書き換える。……くっ、このコルセット、本当に肺活量を制限するわね……!」
「了解。あんたのドレスが皺にならないうちに、パパッと片付けちゃいましょうか!」
リサが手の平から爆発的な黄金の魔力を放出する。馬車が激しく揺れ、豪華な内装がキシキシと悲鳴を上げた。
「……因果律固定。定義書き換え――『この道は、ただの真っ直ぐな石畳である』。付加条項、『外部干渉による座標ズレを0.001%以下に抑止せよ』!」
アスカは、窮屈なドレスの中で必死に呼吸を整え、空中に指先で透明な数式を叩きつけた。彼女の青白い魔力とリサの黄金の輝きが、馬車の密室を満たし、外側の歪んだ闇を内側から食い破っていく。
パリン、と硝子が割れるような音が響き、幻影は霧散した。馬車は何事もなかったかのように、陽光降り注ぐ街道を走り続ける。
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【ラストシーン】
「……ふぅ。……0.8秒の遅滞。ドレスの制約がなければ0.4秒で済んだはず。……全く、王都に着くまでに私の合理性が摩耗しきってしまうわ」
アスカは背もたれに深く体を預け、額に滲んだわずかな汗を指で拭った。乱れた白のドレスの襟元を、不器用な手つきで直そうとする。
「あはは! あんた、今の王都の術師が見たら泣くわよ? あの規模の術式を、ドレスの不平を言いながら数秒で潰すなんて」
「……当然。私のドレスを皺にした罪は重いわ。王都の連中には、この代償をきっちり計算させてあげる」
窓の外には、白亜の城壁を擁する巨大な王都のシルエットが見え始めていた。アスカは乱れた息を整え、賢者の冷徹さとプライドが混ざり合った、この上なく美しい微笑を浮かべた。
揺れる馬車は、運命の濁流が渦巻く王都の門へと、迷いなく吸い込まれていった。




