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第32話:完全なるデバッグ

【舞台:夕暮れのエルムの街・大通り~古本屋『VOID』前】


「記憶を喰らう蛇」が消滅し、街は一見、平和を取り戻したかのように見えた。だが、アスカの瞳にはまだ、世界の端々に残る「小さなノイズ」が映っていた。

 建物の影が数秒分だけズレていたり、道行く人の記憶が「昨日の朝食」だけ欠落していたり。それは放置すればいずれ大きなバグへと育つ、時間の残りかすだ。

 アスカは手に持った魔導書に、流れるような手つきで修正コードを書き込み続けていた。


「……第14番街、路地の因果律の不整合、0.02秒。……修正完了。シュシュ、次は中央広場の『記憶の重複』をスキャンして」


「了解ですニャ、アスカ様! でも、もう街のみんなは普通に生活していますニャ。そんな細かいところまで直さなくても……」


「……ダメよ。不完全な復旧は、論理的な美しさに欠けるわ。それに……」


 アスカは、広場の噴水で呆然と座り込んでいる花売りの老婆を見つけた。彼女の手には、少しだけ萎れた花束が握られている。蛇に記憶を吸い取られたショックで、心が「空白」に耐えきれず、立ち止まってしまったのだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【賢者の「心のデバッグ」】


 アスカは老婆の前に静かに歩み寄り、その萎れた花にそっと手を触れた。


「……お婆さん。その花は枯れているわけではないわ。ただ、あなたの記憶の中で『咲く時間』が迷子になっているだけよ」


 アスカの指先から、淡い青の光が花へと流れ込む。すると、茶色く変色しかけていた花びらが、時間を巻き戻すように鮮やかな色彩を取り戻した。


「……おや。まあ……綺麗。私、何をしていたのかしら」


「あなたは、この花を一番綺麗な状態で、あの子に届けようとしていたのよ。……ほら、思い出して。あなたの『昨日』は、消えたんじゃなくて、私たちが繋ぎ止めたんだから」


 アスカが優しく囁くと、老婆の瞳に生気が戻った。


「そうだったわ、孫の誕生日だったわね! ありがとう、お嬢ちゃん」


 老婆が去っていくのを見送り、アスカはふう、と小さく溜息をついた。


「……アスカ様、今のって『心のデバッグ』ですニャ? 意外と面倒見がいいですニャ」


「……誤解しないで。街全体の感情指数が低下すると、魔力循環が悪化して計算が複雑になるからよ。……あくまで、効率化のためよ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【師匠との穏やかな時間】


 全てのデバッグを終え、アスカが古本屋『VOID』の前に戻ると、そこには夕日を浴びて金色の髪を輝かせたリサが、看板に寄りかかって待っていた。


「お疲れ様、アスカ。街中の『綻び』、全部縫い合わせたみたいね」


「……当然。私の監視下で、未定義のデータが残ることは許されないわ。……リサ、あなたも少しは手伝ったらどうなの?」


「あはは! 私は壊すのが専門だもの。直すのは、あんたみたいな繊細な指先の持ち主に任せるわよ」


 リサはそう言って、アスカの頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。


「……やめて。計算が乱れるって、いつも言っているでしょう」


「いいじゃない。今のあんたの頭の中は、きっと世界で一番綺麗な数式で埋まってるわよ。……ねえ、アスカ。今回の件で、何か学んだ?」


 アスカは、暮れなずむエルムの街を見渡した。 笑いながら帰路につくレオンとカイル。夕飯の支度をする家の煙突から昇る煙。 それらはすべて、かつての彼女が「無駄なノイズ」と切り捨てていたものだった。


「……学んだ、というより……再定義したわ。……私の求めていた『静寂』は、無音の中にあるんじゃない。……この騒がしい日常が、正常に機能している状態こそが、私にとっての『完璧な静寂』よ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


 アスカは、リサと一緒に『VOID』の重い扉を開けた。 店の中には、昨日までの「昨日」を乗り越えた、新しいたまり場としての匂いが漂っている。


「……さあ、シュシュ。明日の開店準備を。……それから、リサ。……お茶を淹れるわ。あなたが昨日言っていた『とっておきの茶葉』、まだ残っているでしょう?」


「お! 珍しいわね、アスカから誘うなんて! 贅沢に淹れちゃいなさい!」


 アスカは、カウンターの奥で静かにティーカップを並べた。 窓の外には、一番星が静かに瞬き始めている。 それは、昨日を失い、昨日を取り戻し、そして今日を明日へと繋げた賢者が手に入れた、最高に贅沢な「余白」の時間だった。

 アスカの唇には、もう冷徹な観測者としての硬さはなかった。 ただ、自分が守り抜いた愛おしいノイズの中で、静かに明日を待つ一人の女性としての、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


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