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第22話:泥濘の中の少女

第3章「時間の再定義と因果の果て」


物語は現在より10数年前、アスカとリサの出会いから始まります。

【舞台:王都・北の離宮 地下魔導書庫】


 そこは、言葉が死に絶えた場所だった。 高い天井まで届く書架には、びっしりと古文書が並び、空気に触れることのない沈黙が何年も積もっている。その中心、冷たい石畳の上に、一人の少女が座り込んでいた。

 幼いアスカは、誰に命じられるでもなく、そこに自らを閉じ込めていた。


「……第3層、因果律の干渉指数、0.00045。誤差範囲。……次。物質の振動、静止まで……あと少し」


 アスカが呟くたび、彼女の周囲にある空気が凍りついたように固定される。 彼女の瞳は、世界を美しい風景としては捉えていなかった。視界に映るすべてが、剥き出しの「術式」として流れ込んでくる。風の揺らぎは数列に、光の屈折は幾何学模様に。その膨大な情報量が、幼い彼女の脳を休む間もなく叩き続けていた。


「……静寂が、欲しい」


 アスカは耳を塞いだ。だが、情報の嵐は止まらない。 彼女にとって魔法は選ばれた者の特権ではなく、世界というシステムが垂れ流す「不快なノイズ」に過ぎなかった。

 少しでも集中を欠けば、彼女の内側から溢れ出す魔力が、周囲の物質の記述を書き換えてしまう。 昨日も、一昨日も、彼女はただ座っているだけで、大切にしていた本を「灰」に変え、飲み物の入ったグラスを「砂」に変えてしまった。


「……私は、この世界のバグだわ。……触れるものすべてを、壊してしまう。……なら、最初から何も存在しないゼロの中にいればいい」


 アスカは、自分自身の存在を数式として処理し始めた。 自らの五感を遮断し、魔力の流動を極限まで抑え込み、世界との接続を断つ。 完全なる「静寂」を手に入れるための、絶望的な自己消去の術式。

 地下書庫の静寂は、死の冷たさに似ていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【黄金の風の乱入】


 その「静寂」が、暴力的なまでの輝きによって引き裂かれた。


 ――ドォォォォン!!


 幾重にも張り巡らされていたはずの防御結界が、紙切れのように破り捨てられた。 爆風と共に、地下書庫の重厚な扉が、ねじ曲がった鉄塊となって吹き飛ぶ。


「……なっ!? 結界の因果律が……消失した?」


 驚きでアスカの演算が止まる。 砂煙を切り裂いて現れたのは、眩いばかりの金色の髪をなびかせた一人の女だった。 彼女の琥珀色の瞳は、アスカがこれまで見てきた誰よりも、生命の熱量に溢れている。


「なによこれ! カビ臭いったらありゃしないわね。あんた、こんな掃き溜めで世界の終わりにでも備えてるわけ?」


 女――リサは、アスカが引いた「立ち入り禁止」の術式ラインを、文字通り土足で踏み越えて歩み寄ってきた。


「近寄らないで! 壊れるわ……私の魔力は、触れるものすべてを……っ!」


「壊れる? だったら何よ。壊れたら、もっといいものを作ればいいじゃない」


「……あなたは何も分かっていない! 計算が……私の脳内の計算が、あなたの存在のせいでエラーを吐いているの! 来ないで! 私の静寂を、汚さないで!!」


 アスカが叫ぶ。彼女の感情の高ぶりと共に、地下書庫の床が砕け、魔導書が宙を舞い、青白い雷光が渦巻いた。 それは少女の拒絶。世界との繋がりを絶とうとする、悲鳴のような魔力の奔流。

 だが、リサは止まらなかった。 彼女はその嵐の中に、まるで春の風の中を歩くように、軽やかに踏み込んできた。


「静寂なんて、死んでからいくらでも味わえるわよ。……今は、この『騒音』を楽しみなさい!」


 リサは、怯えるアスカの小さな体を、そのまま力いっぱい抱きしめた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【ラストシーン】


「……あ……」


 アスカは目を見開いた。 リサに触れられた瞬間、脳内を埋め尽くしていた狂ったような術式の羅列が、一瞬で溶けるように消え去った。 リサの体温。ドクドクと響く心臓の音。そして、金色の髪から漂う、外の世界の太陽の匂い。


「……ノイズが、止まった? ……数式が、見えない……」


「あんたの魔法は、ただ寂しくて騒いでただけよ。……よし、いい子ね。目を開けなさい」


 リサはアスカの顔を上げさせると、壊れた入り口の向こうを指差した。 そこには、地下書庫の暗闇しか知らなかったアスカが、想像すらできなかった光景が広がっていた。

 夕焼けの空。燃えるような橙色と、深い紫が混ざり合い、言葉では言い表せないグラデーションを形作っている。


「……綺麗。……でも、どうして? この空を説明する数式なんて、どこにも……」


「数式にできないから、綺麗なのよ。……さあ、行きましょう、弟子一号。あんたのその窮屈な『正解』、私が全部ひっくり返してあげるわ」


「……弟子? ……勝手に決めないで。……あなたは、私の平穏をめちゃくちゃにする、最低の……最悪のノイズだわ」


 アスカは、まだ震える手で、リサの服の裾をぎゅっと握りしめた。 目からは、自分でも理由のわからない涙が溢れていた。

 それは、孤独な賢者が初めて「理解できない他者」を受け入れた瞬間。 アスカの止まっていた時間が、黄金の風によって、騒がしく動き出した。



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