第167話:さよなら、ミーナ ―― 先生の宿題
【舞台:水都の噴水広場 ―― 旅立ちの朝】
翌日。帝都の朝は、運河から立ち上る薄い霧に包まれていた。 昨日までの騒乱が嘘のように静まり返った街。幼稚舎の門前、水飛沫を上げる噴水広場に、アスカたちは旅支度を整えて集まっていた。
「……もう、行っちゃうの?」
ミーナが、新しい幼稚舎の制服の裾をぎゅっと握りしめて俯いていた。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
「何よ、湿っぽい顔しちゃって。昨日あんなに威勢よく『知識の開放』を喜んでいたのは誰?」
アスカはわざと意地悪な口調で言いながら、ミーナの頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「だって……やっと、お姉ちゃんにまた会えたのに」
「ミーナちゃん。アスカはね、あなたが自分の足で歩き出すのを見届けるためにここまで来たんですよ」
レイが膝をつき、ミーナと視線を合わせて優しく微笑む。
「あなたはもう、独りぼっちじゃありません。エレーヌさんも、レオンさんも、それにカイルさんだっています」
「そうですよ、ミーナ様。何かあれば、すぐに執事の私をお呼びください。風より早く駆けつけましょう」
ゼノスが完璧な礼とともに、ミーナに温かいココアの入った水筒を手渡した。
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【舞台:賢者の贈物 ―― 古びたノート】
「……ミーナ、これを持っていきなさい」
アスカが鞄の底から取り出したのは、皮装丁の、少し擦り切れた一冊のノートだった。
「お姉ちゃん……これは?」
「私の『ハッキング・ノート』の写しよ。……ただし、中身はほとんど白紙。最初の数ページにだけ、私がかつてリサから教わった『魔法の本質』と、私が自分で見つけた『世界の脆弱性』の基礎を書いておいたわ」
ミーナが震える手でそのノートを受け取る。
「いい、ミーナ。ここからは私の『宿題』よ」
アスカの瞳が、師としての厳格さと温かさを湛えてミーナを射抜いた。
「このノートの白紙のページを、あなた自身の『発見』で埋めていきなさい。誰かに教わった魔法じゃない。あなたが自分の目で見て、自分の頭で解析して、自分の心で書き換えた『あなただけの魔法』を、いつか私に見せに来るのよ」
「私だけの……魔法……」
「そう。魔法は自由のためにある。誰かの顔色を窺って使うものじゃないわ。あなたが守りたいものを守るために、世界をちょっとだけ都合よく書き換える。それが私の、そしてあなたの魔法よ」
ミーナはノートを胸に抱きしめ、何度も、何度も頷いた。
「……はい! お姉ちゃん! 私、絶対にこのノートを最高の魔法でいっぱいにするよ!」
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【舞台:別れと再会へのコード ―― ステラの介入】
「……第108号。感傷的なデータのやり取りは終了したかしら」
それまで黙って様子を観察していたステラが、一歩前に出た。彼女はミーナの前に立つと、無表情ながらもその小さな肩に手を置いた。
「ミーナ。私からも、一つだけデータを共有しておくわ。……貴方のバイタルサインは、以前よりも格段に強固になっている。……貴方が書き換える未来の計算式、少しだけ楽しみにしているわよ」
「ステラさん……ありがとう!」
「……それから。私の日記に、貴方の名前は『弟子・第一号』としてバックアップされているわ。消去されないように、精進しなさい」
「ふふ、ステラなりの激励ね」
リサがケラケラと笑い、シュシュが「ニャー!」と元気よく鳴いてミーナの足元に体を擦り寄せた。
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【ラストシーン:運河に響く誓い ―― 黄金の残光】
「――アスカ! 皆、元気でな!」
広場の向こうから、エレーヌの手を引いたレオンが大きく手を振って現れた。
「ミーナのことは任せとけ! 俺がこの命に代えても守り抜いてやるぜ!」
「……声が大きいわよ、勇者! エレーヌを泣かせたら、あんたの心臓、遠隔ハッキングで止めるからね!」
アスカが言い返すと、広場に明るい笑い声が弾けた。
アスカたちはゆっくりと背を向け、エルムの街へと続く馬車へと歩き出した。 石畳を叩く靴の音。運河を滑るゴンドラの水音。
「アスカお姉ちゃーん!」
ミーナの叫び声が、朝の霧を突き抜けて響いた。
「私、きっとお姉ちゃんに追いつくから! 絶対に、世界で一番の魔導師になって、『VOID』に本を買いに行くからー!」
アスカは振り返らなかった。ただ、右手だけを高く、誇らしげに掲げた。 その指先からは、小さな黄金の魔力が火花のように散り、朝日を反射してキラキラと輝いている。
「……ふん。生意気な弟子ね。……待ってるわよ、ミーナ」
馬車が動き出す。 背後で遠ざかっていく帝都の景色。けれど、ミーナが抱きしめたあの白紙のノートには、もう新しい物語の最初の一行が刻まれているはずだ。
賢者アスカと、その愛弟子の、これは終わりではなく、重なり合う物語の序奏。 黄金の風に吹かれながら、『VOID』の家族たちは、自分たちの居場所――愛すべき本と平穏の待つ家へと、帰路についた。




