第140話:虫食いの記憶(バグ・メモリー)
【舞台:北の氷河・境界線 ―― 忘却の吹雪】
エルムの街を出てから、どれほどの時間が経過しただろうか。 門を越えた瞬間に世界は一変し、視界のすべては、空と大地の境界さえも曖昧にするほどの白銀に塗り潰されていた。
「……寒い? レイ」
アスカが声をかける。その声は、吹き荒れる「忘却の吹雪」に瞬時に切り刻まれ、粉雪となって霧散した。 彼女の纏う純白のドレスは、「概念防御」の術式を極限まで重ねた最強の装甲だ。絶対零度の冷気を遮断し、物理的な暴風を無力化しているはずだった。
「いいえ。アスカの隣にいますから、大丈夫です」
一歩後ろを歩くレイが答える。彼女のロイヤルブルーのドレスもまた、アスカが施した「不服従の論理」によって、この異常な空間からの干渉を拒絶し、凛とした輝きを放っていた。
だが、アスカの眉間には、消えない皺が寄っていた。 防御術式は完璧。物理的なダメージは受けていない。しかし、先ほどから「演算」が滑る。頭の中に展開している座標軸が、まるで砂の城が波にさらわれるように、端からパラパラと崩れ落ちていく感覚があった。
「ねえ、レイ。……リサは、式の時、どんな色のドレスを着ていたかしら」
唐突な問いに、レイが不思議そうに首を傾げた。
「リサさんですか? もちろん、アスカが選んだ、あの綺麗な純白の……」
「……そう。そうだったわね。……ごめんなさい、少しだけ、計算リソースを外の結界に回しすぎたみたい」
アスカは誤魔化すように歩速を上げた。 胸の奥で、経験したことのない嫌な動悸が鳴っている。 リサが白いドレスを着ていたことは覚えている。だが、その時のリサの「顔」が、霧がかかったようにぼやけて思い出せない。笑っていたのか、泣いていたのか。あの日、自分が贈ったガラスのペンダントがどんな風に彼女の胸元で揺れていたのか。
その細部が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、確かに失われていた。
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【舞台:静かなる侵食 ―― 砂嵐のささやき】
吹雪は次第に、物理的な風音から「無機質な音の羅列」へと変質していった。
ザザッ……ザザザッ……。
「(……ノイズ?)」
アスカの脳内に、本来流れるはずのないシステムログが奔流となって流れ込む。 それは、感情や思い出を「不要な一時キャッシュ」と見なし、冷徹に消去していく、世界の理の自浄作用だった。
「アスカ、止まってください! 術式が……アスカの周りの術式が、変です!」
レイが叫び、アスカの腕を掴んだ。 見れば、アスカの純白のドレスの裾から、銀色のノイズが火花のように散っている。ドレスに刻まれた「概念防御」が、外側からではなく、アスカの「内側」から崩壊を始めていた。
「レイ……離して。……今、私の頭の中で、何か、巨大なものが動いているの……」
アスカは膝をついた。 記憶の虫食いは、加速していた。 VOIDの店内に漂う古い紙の匂い。シュシュが昼寝をしていたカウンターの質感。ゼノスが焼いてくれたクッキーの甘み。 それら、アスカを「アスカ」たらしめていた大切な断片が、次々と「解析不能なエラー」として処理され、消えていく。
「嫌……。やめて……! 私は、私は賢者アスカよ! この程度の干渉、論理的に遮断して……!」
アスカは震える手で、リサから託された黒い魔導書を抱きしめた。 だが、その表紙に記された『リサ・ルナール』という署名さえも、アスカの瞳には「未知の記号」に見え始めていた。
「リサ……? 誰……? 私は、何を、守ろうとしていたの……?」
「アスカ!!」
レイが、泣きそうな顔でアスカの肩を揺さぶる。 その瞳が、アスカを真っ直ぐに射抜く。
「私を見てください! 私はレイです! あなたが『セレスティア』で私に名前を付けてくれた、あなたの半分なんです!」
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【舞台:忘却の底、繋ぎ止める温もり】
アスカの瞳から、少しずつ意志の光が奪われていく。 彼女の視界は、もはや雪景色ですらなく、無数のエラーコードが埋め尽くす「神の視点」へと強制的に切り替わりつつあった。
「……標的、確認。……個体名、レイ。……属性、不明。……排除……対象……」
アスカの口から漏れたのは、氷のように冷たく、感情の欠片もない機械の声だった。 その右手が、反射的に攻撃術式を構築しようと持ち上がる。
「ダメです……そんな言葉、アスカに言わせません!」
レイは、攻撃されるかもしれない恐怖を微塵も見せず、アスカを力一杯抱きしめた。 「概念防御」が弾け、レイのドレスに編み込まれた「不服従」の魔力が、アスカを蝕むシステムログと激しく衝突する。
「思い出してください! 私に魔法を教えてくれた時の、あの偉そうな顔! ゼノスさんの料理をこっそりつまみ食いした時の、子供みたいな顔! 私が一番好きな、アスカの顔を……!」
レイの体温が、ドレス越しにアスカの心臓を叩く。 それは、論理でも数式でもない、ただ純粋な「生命の拍動」だった。
「…………レ……イ……?」
アスカの瞳に、ほんの一筋だけ、人間らしい色が戻った。 彼女の意識の底で、リサの魔導書の余白に書かれていた「夕飯の献立」という、あまりにも非効率で、愛おしいノイズが輝いた。
「……そうよ……。私は……。あの店に、帰らなきゃいけないんだわ……」
アスカは、がたがたと震えながら、レイの背中に手を回した。 今、自分の中にある記憶は、もう半分も残っていないかもしれない。 けれど、この腕の中にある温度だけは、システムには決して解析できない「真実」として、彼女の魂に深く刻まれていた。
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【ラストシーン:断絶の予感】
吹雪は、さらに激しさを増した。 二人の周囲には、破壊された「記憶の残骸」が、銀色の塵となって舞っている。
アスカは、レイの肩を借りてゆっくりと立ち上がった。 足元には、先ほどまでなかった「幾何学的な光の路」が、氷河の奥へと伸びている。それは、彼女を「部品」として招き入れる、オリジンへの最短ルート。
「行きましょう、レイ。……今のうちに。……私の心が、完全に『空』になってしまう前に」
アスカの声は、痛々しいほどに震えていた。 彼女は自分の白いドレスをそっと見た。それは、アスカ自身の論理と、これまでの時間や愛情がすべてこの布地に刻まれている、彼女の半身ともいえる一着。
(……忘れない。この温もりだけは、神様にだって消させない)
アスカは強く、強くレイの手を握り直した。 だが、視界の隅では、再び黒い砂嵐が走り始めていた。 北の果て、世界の心臓部から、さらなる非情な「呼び声」が響こうとしていた。




