第119話:風も啼かない砂の海
【舞台:砂漠の国ミュート ―― 黄金の静寂】
どこまでも続く黄金色の砂丘。本来であれば、そこには風が砂を噛む乾いた音や、熱せられた空気が震える陽炎の唸りがあるはずだった。しかし、アスカとレイが降り立ったその地には、世界から「音」という概念そのものが剥ぎ取られたかのような、絶対的な静寂が支配していた。
レイは、自分の心臓の鼓動さえ聞こえない異様な空間に、めまいを覚えた。
「……っ」
叫ぼうとしても、喉の震えが空気に伝わらない。唇が動く感触はあるのに、発せられたはずの言葉は唇のすぐ先で、目に見えない何かに飲み込まれていく。
(怖い……。まるで、私自身の存在が消えかけているみたい)
レイは思わず、自分の喉元を抑えた。ロイヤルブルーのドレスが砂漠の風に激しくなびいているが、その衣擦れの音さえも一切しない。視覚情報と聴覚情報の致命的な解離が、彼女の平衡感覚を狂わせていく。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:賢者の観測 ―― 視覚化される世界】
『――動揺しすぎよ、レイ。深呼吸しなさい』
直接、頭の中に声が響いた。 驚いて隣を見れば、アスカが純白のドレスの袖から白皙の腕を伸ばし、複雑な幾何学模様の魔導陣を展開していた。アスカが空中で指を弾くと、無音の世界に鮮やかな**「青白いスペクトル」**が浮かび上がる。
それは、音という不可視の振動を、光の波形として描画するアスカ独自の解析術式だった。
『精神同期を維持しているわ。私の思考をあなたの脳へ直接流し込んでいる。……耳に頼るのをやめなさい。今は、私の数式だけが真実よ』
アスカが指差す先、空中の波形は、本来なら風の音で乱れるはずの部分が、不自然なほど真っ直ぐな一本の線になっていた。
『アスカ……これ、どういうことなの? 私たちの声だけじゃなくて、国中の音が死んでいるの?』
レイは心の中で問いかけた。精神同期を通じて、その問いは瞬時にアスカへ伝わる。
『死んでいるのではないわ。……強制的に「収穫」されているのよ』
アスカは鋭い眼差しで、地平線の彼方に視線を固定した。
『見て。私の観測陣に映るこの微細なノイズ。……この空間には、音をエネルギーとして吸い上げる「事象の孔」が無数に存在している。……レイ、あなたの足元を見て』
レイが視線を落とすと、彼女が砂を踏みしめるたびに、砂粒が弾けるはずの場所に一瞬だけ黒い火花のような模様が浮かび、消えた。
『砂を踏む衝撃音さえも、発生した瞬間に奪われている。……非論理的な効率性ね。これほどの広範囲を無音に保つには、中心部に相当な質量の「核」があるはずだわ』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【舞台:音が吸い取られる恐怖】
二人は歩き続けた。 アスカの魔導陣が示す波形は、常に一定の「沈黙」を刻み続けている。 レイにとって、それは歩くたびに自分の魂が削り取られていくような、形容しがたい恐怖だった。
人間は、自分の出す音で自らの存在を確認している。 足音。衣擦れ。吐息。 それが否定され続ける空間で、レイは自分が薄っぺらな幻影に成り下がったかのような感覚に陥っていた。
『……アスカ。もし、このまま音が戻らなかったら、私たちはいつか、自分たちが何を考えているのかさえ忘れてしまうのでしょうか』
レイの弱気な言葉が、リンクを通じてアスカに届く。 アスカは立ち止まり、レイの肩を強く掴んだ。その手のひらの確かな熱と圧力が、レイを現実に繋ぎ止める。
『忘却は論理的ではないわ。……レイ。あなたが聖教国の地下で耐え抜いた孤独は、こんな薄っぺらな静寂よりも、もっと重く、深いものだったはずよ。違うかしら?』
アスカの瞳が、真っ直ぐにレイを射抜く。
『今のあなたには、私の声が届いている。そして、私にはあなたの心の震えが伝わっている。……事象が音を奪えても、私たちが築いたこの「接続」までは奪えない。……信じなさい。この私と、私を選んだあなたの直感を』
アスカの強い意志が、レイの心の中に流れ込み、冷え切っていた彼女の芯を温めた。 レイは深く頷き、アスカの手を握り返した。ロイヤルブルーの生地と、純白の生地が重なり合う。
『……そうですね。私、独りじゃありませんでした。……行きましょう、アスカ。この沈黙の正体を暴くために』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【ラストシーン】
陽が落ち始め、砂漠が紫色の影に染まる頃。 アスカの観測陣が、突然激しく明滅した。
『――捉えたわ。北北西、三キロ。事象の欠落が最も集中している「特異点」よ』
その方向には、砂に半ば埋もれた奇妙な塔の影が見えた。 かつてミュート王国の栄華を支えたとされる、古代の観測塔。そこから、目に見えない巨大な「渦」が空に向かって伸びているのを、アスカの数式は捉えていた。
その時、アスカの魔導陣の波形が、初めて「フラット」を破って激しく跳ねた。 だが、それは音ではない。 それは、**「音を欲しがる獣の、飢えた視線」**の可視化だった。
『……来るわ、レイ。……音が死んだ世界で、音を求める「何か」が』
アスカが身構え、レイがその隣で共鳴魔法の準備を整える。 二人の周囲で、砂が音もなく舞い上がった。 月光に照らされた砂漠に、巨大な影が音もなく、けれど確実な殺意を伴って、滑るように近づいてきていた。




