第9話:エルムの森の異変と、アスカの休日出勤
【舞台:エルムの森・境界付近】
エルムの街を囲む広大な森が、不気味な紫色の霧に包まれていた。 鳥のさえずりは途絶え、湿った土の匂いに混じって、獣の腐臭が漂っている。森の奥から響く地鳴りのような咆哮が、街の平穏を刻一刻と蝕んでいた。
「……五月蝿い。この周波数の重低音、私の安眠を妨害するために誰かが調律したのかしら」
森の入り口。 アスカは、お気に入りの刺繍が入ったローブの裾を汚さないよう、魔法で地面から数ミリ浮いて歩いている。
「アスカ様、本気ですニャ? 日曜日の午後に外出なんて、天変地異の前触れですニャ!」
肩の上のシュシュが、霧を避けるように鼻をひくつかせた。
「……天変地異は、今目の前で起きてるわ。シュシュ、森の奥にいる『バグ』の反応を解析して。……五分以内に片付けて、おやつの時間には帰るわよ」
森を突き進むアスカの前に、霧の中から巨大な異形が現れた。 三つの頭を持つ魔獣、ケルベロスの変異種だ。その瞳には狂気が宿り、口からは触れるものすべてを腐食させる粘液が垂れている。
「グルゥ……アァァァッ!!」
「……耳障り。ボリューム調整もできないの? 獣の分際で、この領域の静寂権を侵害しないで」
アスカは歩みを止めない。 襲いかかる魔獣に対し、彼女がしたのは、ただ右手の指先をスッと空へ向けることだけだった。
夕闇が迫る森の中で、アスカの肌は陶器のように白く、その黒い瞳は星のように冷徹な光を放っている。死の恐怖を前にしても、彼女の美しさは微塵も揺るがない。
「事象定義:音響エネルギーの無効化。……および、対象の存在密度の再定義。……デリート」
アスカが指先を「パチン」と弾いた。
――無音。
衝撃波も、爆発音もなかった。 咆哮を上げていた魔獣の巨体は、アスカの指先から放たれた目に見えない「数式の波動」に触れた瞬間、パズルのピースが崩れるように、静かに、そして完全に消滅した。 後に残ったのは、浄化された清浄な空気と、もとの静かな森だけ。
「流石ですニャ、アスカ様! 休日出勤の破壊力、世界一ですニャ!」
「……不愉快だわ。魔力を0.0001%も無駄にした。……さあ、帰るわよ。これ以上ここにいると、服に森の匂いが染み付くわ」
アスカは踵を返し、街の方へと浮遊したまま移動し始めた。 その背中には、平穏を取り戻した森の木々の間から、黄金色の西日が差し込んでいる。
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【場所:古本屋『VOID』前】
店に戻ると、入り口にはミーナが大きなカゴを持って座り込んでいた。
「あ! お姉ちゃん、お帰りなさい! どこに行ってたの? 森の方が変な色してたから、心配で……」
「……ちょっと、散歩。……空気のデフラグをしに行っただけよ。……それよりミーナ、そのカゴの中身は?」
アスカがいつもの気だるい表情で問うと、ミーナはパッと顔を輝かせた。
「あのね、今日はお母さんと一緒に『森のベリーのタルト』を焼いたの! 騒がしいのが収まったから、お祝いだよ!」
「……ベリーのタルト。……ふうん。……まあ、歩いてカロリーを消費したから、補給しないと脳の演算が追いつかないわ。……特別に、店内で食べるのを許可するわよ」
「やったー! さっそくお茶淹れるね!」
ミーナが店内に駆け込んでいく。 アスカは入り口で立ち止まり、静かになった森の方を一度だけ振り返った。
「アスカ様、本当は街を守るために出向いたくせに、素直じゃありませんニャ。おやつが目当てだったことにするつもりですニャ?」
「……黙って、シュシュ。私はただ、タルトを静かな環境で食べたかっただけよ。……それが、私の人生における最優先事項なんだから」
アスカは、黒髪を指で軽く整えると、甘い香りの漂う店内へと足を踏み入れた。 最強の賢者が守ったのは、大袈裟な平和などではない。 それは、少女が届けてくれるタルトの味を、誰にも邪魔されずに楽しむための、小さな、けれどかけがえのない「静寂」だった
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