表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/42

哲学の山

全くもってお仕事。

「何から揃えましょうかねえ。色々必要になりますからねえ。これは大仕事ですねえ。そう思いませんか野火さん?」

「よく分からんがお前が楽しいのは分かるぞ。買い物好きなのか?」

 使者として西浦への遠征が確定してから、音々は野火を攫って商店街へと向かっていた。自身をそっちのけであれこれと考えを巡らす音々を見ていると、仕事人とはいえ彼女も若者であると思えた。

 中ノ湾から西浦に向かうには、基本的に機関車を使う他はない。昔はそれ以外にもルートがあったそうだが、戦争の余波によって荒野と化した街の外は現状生身の人間が歩くには危険過ぎるのだった。しかし機関車は東潮の、帝國重工の製品であり、その運行も基本的には重工の管轄下にある。出日ノ国のインフラやメディアはごく少数の例外を除き、全て戦前から帝国重工の製品に頼りきりだった。それはつまり、使った時点でこちら側が何を企んでいるのか察知されることに他ならない。

「だからと言って西浦まで徒歩ってのはやり過ぎじゃないかね……。吉光さん、俺が生身なの知らないのか?」

「それだけあなたと火嶋の事を信頼してるって事ですよお。そんな事より早く服選んで下さい。この後は行軍糧食も揃えに行くんですからあ。」

「服なら洗い替えがある。一張羅だが正装もあるんだ。これだけで十分だよ。」

 顔を顰めた野火を音々は汚いものを見る目で見た。彼の持っている服は火嶋の道場にいた時、火嶋宗平から買い与えられたなんの飾り気も無い綿の上下であり、一張羅でさえも火嶋の紋が入った宗平の古いお下がりだったのである。だが武術を修める上では全く問題は無く、ゆえに野火はそれが余りにも身だしなみとは対極にあるとはまるで理解せずに着ていたのだった。

「野火さん……。もしあなたが本気でそれを服だと思っているなら、西浦に行く前にわたしがあなたをしばきますよお。」

「なぜだ。」

 音々は言葉を発する事なく、額に浮かんだ青筋でもって意思を示した。彼は既にその表情の音々があらゆる異論を受け付けないという事を理解していたので、大人しく着せ替え人形になる事を受け入れた。お世辞にも大きいとは言えないこの街に、何故何軒も服屋があるのかと不思議になったが、気が遠くなる様な試着を繰り返す内に野火は自らの思考を放棄した。服とはつまり全く完成の二文字が欠けた概念であり、武術のような最適化など存在し得ないがゆえにありとあらゆる正解が存在し得るのだと悟ったのだ。その世界においては歩き方を知らぬ者に思考する資格は無く、知る者に全てを委ねる以外に生きるを許されない。

 自身を縛っては解けていく無数の布地に地上の真理を見出し始めた頃、音々は数着の普段着と現代風の背広を一着抱えて笑顔で野火に差し出していた。それは元々持っていた服とは似ても似つかない物だが、袖を通してみればしっくりと身体に馴染んだ。和装と洋装のいいとこ取りをした様なゆったりしたシルエットながら、肩口と腰回りは引き絞られ、足回りに全てを託して戦う野火でも動き易く作られている。正装の方も、重蔵が着ているそれによく似た背広を音々は選んでいた。

「何だかな……。初めて着る筈なのに身体に馴染むのが気持ちが悪い。」

「馴染む様に選びましたからねえ、これだけあれば組み合わせで最低限まともに見えますよお。西浦でも普通に歩けるんじゃないですかねえ。」

「言いたい事は山ほどあるが、取り敢えず何も言わないでおくとするよ。次は何処まで行くんだ?」

「食糧調達ならもう済んでますよお?注文しておいたので宿に届けてくれます。」

「……いつの間に?」

「根猫蛇ですからあ。」

 悪戯っぽく笑って振り返り、音々は一人で歩き出す。次に向かったのは中ノ湾唯一の病院であった。そこまで大きくはない施設だが、五櫻吉光の計らいでこの街は人口に比べて医者が多い。二人が訪れた時にも、何やら机に向かっていた白衣の医師が出迎えてくれた。

「お疲れ様ですう。しばらく外に出るので外傷用の薬品一式に熱冷まし、後は下剤辺りを見繕って下さいなあ。」

「根猫蛇さんじゃないですか。またお仕事です?」

「そんな所ですねえ。五櫻の仕事の方は進捗どうですかあ?」

 詮索をさらりと躱して言い返すと、その若い医師の表情はあっという間に悪くなり、恨み言を連ね始める。

 曰く、金よりも検体を寄越せだとか入って来る薬品の質が落ちているだとか欧州からの研究記録はまだ来ないのかだとか。野火には何の話なのかさっぱり分からなかったが、目の前の男が恐らく根猫蛇と五櫻の板挟みになって苦しんでいる哀れな子羊であることは想像が出来た。ゆえに彼には既にどうしょうもない事態である事も理解が及び、野火は黙って彼に合掌した。

 文句を言われながらも用意された薬箱を受け取った時、医師の目元に濃い隈ができている事に気付いた野火は気付かれない様に彼の白衣に金をねじ込んでおいたのだった。少しでも良いものを食って寝てくれという心遣いが届くかどうかは分からないが、この仕事が終わったら彼にも休暇を出してやる様に吉光に訴えてやると決めた。

「持てる者ってのは律儀ですねえ。それとも省みる自分が希薄だからですかあ?」

「つまらん同情だよ。どうせ俺が持っていた所で意味の無い物体なら、ああいう奴に活用してもらった方が金も本望だろうさ。」

 所詮は人を害して手に入れた金であった。ならば、少しでもまた別の人の幸福となるのが貨幣という業に対する些細な意趣返しにでもなるだろう。

 野火の皮肉を音々は笑うだけで切り捨てた。理屈っぽい詩人だという批評は既に貰っているから、これ以上言い募るべき事でもなかった。

「しかし野火さんは変な人ですよねえ。自分でもそう思いません?」

「何を基準に変なのかが分からんからな。自覚の当ても無い。」

「半端に教養を身に付けておきながら妙に悟った死生観をお持ちですし。悲観主義者かと思えば変な所で理想論者ですしい。変な所で足踏みしてるみたいですよお。」

「中庸に身を置けってのは火嶋の教えでもあるからな。半端に見えるのも仕方ないだろうさ。この世の知識人なんてのも大体が政権批判して燃え尽きるか重工に迎合して現体制を礼讃するかだろう?あんな下らん連中と一緒にされるのは気に食わん。」

 道端に生えていた蜜柑の木から一つ失敬し、皮を剥きながら口に放り込む。強烈な酸味が舌を刺すが、野火にはこれくらいの方が好みであった。持ち主は見当たらないので木の麓に小銭を包んで置いてみたら、いつの間にか後の半分を音々が掻っ攫って頬張っていた。

 顔を顰めて野火を睨み付ける表情も今は年相応に見える。年は分からないが。

「酸っぱあ。こんなの好きなんですかあ?」

「まあな。俺自身が半端者だからこそ口にする物位は振り切ってて欲しいのかもしれん。」

「変態ですねえ。思想の足腰鍛えたところで哲学の山には登れませんよお?」

「そいつは重畳。火嶋のお山にまた登る羽目になるのは勘弁願いたい。」

「もうちょっと単純ならわたしも御し易いんですけどねえ。これだから武人は度し難いですう。」

 鼻を鳴らして蜜柑の残骸を仕舞い込むと薬箱を抱え直し、子供染みた仕草で足元の砂を蹴り上げる。避けるのは簡単だったが、野火は何とは無しに大人しく食らっておいた方が良い気がしていた。

 長い買い物もひと段落が着き、そろそろ老人三匹の長話も終わった頃であろう。酒場通りを反対方向から歩きつつ、何かしら食べられそうな物を買って火付盗賊へ向かう。軽く塩が振られた揚げ芋を摘み食いしながら、気付けば日は傾き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ