用心棒
サバは旨い。
仕事終わりの男達の背中に夕闇がのたりと寄り掛かる頃、一つの戦場が歓喜の炎をあげていた。
「ほら小僧、スジ煮込み三皿一番卓だ。きりきり動け!」
「了解だ!後二番、六番卓に焦蒸酒追加!瓶で持って来いとさ!」
「何?これで今日の分は最後だよ!酔っ払い共に伝えて来な!」
「了解了解!ったく忙しいの極みだなこれは!」
「無駄口叩く暇があったらきりきり動け!」
三皿まとめて左手に、空の酒瓶を右手に掴み上げ、新米従業員が店の中を駆け回る。所狭しと並べられた卓にひしめく酔っ払いの間を走り抜ける彼は、それでも何かにぶつかる事はない。培われた平衡感覚と歩法が成せる技だ。
「おっと。危ねえなおっさん!足向けんのは東潮だけにしとけ!」
「くははは!用心棒さんは冗談のキレも一流らしいぜ!この皿も持ってってくれよ!」
「皿を!投げるな!」
錐揉みしながら飛んでくる皿を見切って掴み取り、返す刀で投げた男の頭を張り倒す。固定され始めた動線に意味ありげに差し出された膝を踏み台に飛び上がり、くるりと回って見せれば歓声が沸き起こる。
「小僧、いつから曲芸師になった?焼き秋刀魚と煮転がしが二階四番卓だよ急ぎな!」
「承知!ああ、酒二瓶はまだか?」
「もう持って行ったさ。そもそもお前さんがいなくともこの店は回ってたんだからね。」
ヨモギはさらりと言い放ち、野火に手拭いを投げて寄越す。手元で卵の焼き加減を見極めながらも彼の頬についた汚れを見逃さない、その視野の広さこそが彼女の武器なのだった。
有り難く受け取り、首に引っ掛けて仕事を続け二時間が過ぎようという頃。両手に空瓶を四本ずつ引っ掛けた宙返りに沸く店内に一人の男が駆け込んで来る。右目の周りに青痣を作った男は、それでも笑顔で騒ぎを呼び込む。聞くと、斜向かいの酒場で近年稀に見る大喧嘩が勃発したらしい。
「ヨモギ姉さん、良いか?」
「用心棒だろうが小僧!行ってこい!」
勝手口に空瓶を放り出し、本来の仕事に戻らんと踵を返す。走りながら手首足首を解して深呼吸。広がる視界に安堵を抱えて真新しい戸を蹴り開ける。
途端に目に飛び込んで来たのは砕けた椅子にひっくり返った丸テーブル。どうやら此処は洋酒を主に出す店の様だった。
酩酊し、正体を無くした二人の男が傷だらけになりながら殴り合うのを周囲の観衆が囃し立てる。言葉で諭す段階は遠く越えてしまったようだった。
「こいつは……また派手な喧嘩だな。」
つと周りを見渡し、咄嗟に致命傷を負わせられる武器が無いことを確認する。小さな木屑程度で問題は無い。
「無駄に長引かせるのも無意味か。」
ふらふらと殴り合う二人の呼吸を読み、緩く構える。既に意識はほとんど残っていないと見え、肘や脚が何処にぶつかっても気付く気配がない。目の前の敵憎しで保っているのだろう。二人同時に一撃で刈り取らねば更なる困難が待つ筈だ。
「……そいっ。」
一瞬姿勢を沈めて二人の間に潜り込む。双方が同時に拳を引いた隙に合わせて下から顎を打ち上げれば、酔っ払い達は綺麗に背後へ倒れ込んだ。
「一丁上がり、と。外に転がして水でも掛けておけばいずれ目を覚ますだろうさ。」
「おう兄ちゃん!やるじゃねえか、一杯呑んでけよ!」
「俺は用心棒なんだよ。あんたらが平和に帰るまでは呑めねえの。お前らも喧嘩すんなよ!」
店の中を睨み回しながら怒鳴り、野火は火付盗賊に足を向ける。去り際の歓声に昔道場で遭遇した私闘を思い出し、ふつりと肌が泡立った。
彼等がしきりに酒を勧めるのは、これを洗い流す為でもあったのかもしれない。仕事を果たした用心棒は少し振り返った。客の手で外に引き摺り出され、悪戯で手を繋がされたまま気を失っている男二人が見える。
「……面白い街だな。そこまで深く考えることもないのかもしれん。」
「考えてる暇があるなら早く戻って働きな、小僧。」
ヨモギが店の前で待っていた。使い込まれた出刃包丁を引っ提げ、気の抜けた立ち方で煙草を咥えて微かに笑っている。
そこにうっすらと慈しみが浮かんだ様な気がしたのも束の間、彼女はすぐに踵を返して店に入って行く。その背中を追いかけ、野火は扉を特別丁寧に引き開けた。
途端に飛んで来るのは帰還を労う声の嵐。既に彼の仕事模様は酔っ払い共の耳に入り、酒の肴になっていたのだ。聞けば、先ほど沈めた二人はこの辺りでも腕自慢の二人だったのだと言う。
「用心棒なのに此処にいて良いのか、と言っていたな小童。これで理解出来たかい?」
「ああ、この通りの情報は一瞬でここに集まるってわけかよ。全く面白い街だなあ?」
「これも吉光の手腕さね。ほれ、これでも食って早く動きな!」
厨房からヨモギが投げた握り飯を受け取り、齧り付く。海塩の効いた飯に脂の乗った鯖の大きな焼き身がよく合う逸品である。
右手に差し入れを持ちながら、周りの卓の空いた皿をかき集めて行く。既に十枚重ねるなどお手のものなのだった。
「おうい坊主!お前さん何処で喧華を習ったんだい!」
「坊主じゃねえ。野火だ。知りたきゃ先ずは店の酒全部飲み尽くしてみせな。」
「言うじゃねえか下戸が。てめぇら聞いたな!呑み尽くすぞお!」
面映い、とはこういう事を言うのだろう。自分の周りを取り巻く賞賛と感嘆に、野火はふとしたら緩みかねない頬を押さえて店を駆け回った。かつての道場でもそんなことは無かったというのに、その感覚は彼には不思議なものに思えたのだ。
前掛けを翻し、酒瓶片手に酔っ払いをあしらう用心棒。何もかも初めての経験のはずが、野火には奇妙な充実感を覚えていた。引き戸を押し開ける乾いた音に反射で声を張る位には適応してしまっていた。
「いらっしゃ……あっ。」
「これはまた随分と馴染んだな。野火君。良いことだ。」
「良い格好じゃないか坊主。切った張ったよりそっちの方が天職なんじゃあないか?」
「重蔵の旦那……菜穂子さんまで。何でここに居るんだよ?」
「何でって仕事が終わりゃ酒盛りよ。ねえ、お前さま?」
「ああ。決して君の仕事ぶりが気になったからでは無いよ?」
「全部分かった上で来ている奴の口振りなんだよな!」
野火は顔を顰めてヨモギの方を振り返る。あわよくば追い出してもらおうとしたその目には、しかし表情の無い客たちが映った。
恐怖でも無く、絶望でも無く、それはある種の敵意。外敵に自らを悟らせずに排除を試みる、限り無く殺意に近い敵意であった。
「ん?お前らどうした?」
「おい野火。そいつら何者だ?何でこの店に来られた?」
「何者って、俺と一緒に中ノ湾に来た……恩人?みたいな人だ。吉光さんからは別の仕事を任されてた筈なんだが何でここに来たのかは俺も知らん。」
「本当か?嘘じゃねえな?」
「ここで嘘吐く意味が何処にある。それこそ教えてほしいくらいだ。」
束の間の睨み合い、というよりも腹の探り合い。ここに来る前に吉光から聞いていた、街ぐるみの対諜報策。この害意はその一つなのだろう。内側の弱さを覆い隠す為に積み重ねられた鋭い刃の盾、その切っ先が今重蔵達に向こうとしている。
鮮血に濡れた昨晩の夕闇を思い出し、空瓶を握り直した用心棒の緊張は、もう一人の客によってすぐに無用となった。
「ああもう!呑みに出るなら私を待ってくださいと言ったじゃないですかあ!五櫻の建屋からここまで走ってくるのも大変なんですよお?吉光さんに報告する面倒考えて下さいねえ?」
「……音々?こりゃどういうことだい?」
薄引きを包丁掛けに戻しながらヨモギが問い詰める。音々は全くいつもの調子で二人も五櫻の客人である事を明かし、裏に浮かべる必要は無いと告げた。その真意を問いただす間も無く店の空気は元に戻り、野火はヒビの入った空瓶を捨てに行くのだった。




