36 - 3 〈終〉
俺の憐れむ声に、加地は、ハッ、を目を見開いてから、途端に目が潤み、隠すように少し俯いてゆっくりと首を数回横に振った。その動作は自分に言い聞かせるように見えた。思わず、呆れたような溜め息が漏れた。俺は腕を組んだ。
「でも、傷付いてたりはするんやろ」
こくん、と加地は首を縦に動かした。ふーん、と、声には出さずとも目を細くした。
「なんでや。遊びやったんとは違うんか」
「そう、だけど……俺にもわからない。わからないんだ……」
無意識に解かれたのであろう敬語に、ずっと長く抱えていた戸惑いが吐き出されるのが見えた。
「多分、きっと、そういうことなんです。『つもり』で居たんですよ。最初っから間違ってた。それ目的だけに惹かれてたわけじゃなかったんですよね」
先程から、加地のグラスには一つも口を付けられていないのに気が付いた。そしてグラスの存在を思い出した俺はグラスを寄せてストローを口にした。
「俺も、そうやったよ。明らか外見や体だけじゃなかった。あの何を考えてるんか分からん語り口調を耳にする度、あの柔らかくて体温の低い体に触れる度、毎回毎回、募っていった」
言うと、加地は下唇を噛んだ。その痛さはきっと心の痛さでもあるだろう。自分以外にもミチルのことを知っているという事実は知っていたつもりでも、現実で他人の口から発せられる具体的な言葉に胸を虐められたのだろう。肩も、震えていた。そのまま黙っているので、俺は続けた。
「それは別として。それでも、ミチルも加地くんと同じやったんちゃうんか」
加地は顔を上げてほんの少し前へ乗り出し、不思議そうな目で俺の顔を注視してきた。鈍い加地に、ふう、と鼻から溜め息をついた。
「好かれたかったんやろ、誰かに。一緒に居て、変わらずに、確実に愛されたかったんやろ。たとえ遊びでも。体だけでも。君も、そうやろ」
「ああ、……ああ」
目が覚めたように目を見開いてから、次第に寂しそうに伏し目がちになって、斜め下を向いた。
「そういえば、そうでした。関係を続ける……約束、をしたときに、ミチルさん、言ってました。『俺たち欲しがり合おう』、って」
「そう」
加地に諭そうとしておきながら、詳細にあまり興味がない自分に気が付いた。だからなのか、返す口調が冷たくなってしまった。――いや、本当は――考えているうちに俺は目を左下へ逸らした。
「でも、ミチルさんが本当に欲しかったのは違った。わかってて、わかってたけど、のめり込んで……本当のことを知ったとき、俺、ショックで……薄々気が付いてはいたけど、はっきり、思い知らされてしまった。遊びじゃなかったんだなって、俺だけが」
言って、思い出したかのようにやっとグラスに手を伸ばすのを見た。ストローに口を付けて離してから、また加地は喋った。
「本当に欲しがってたのは、あの、村瀬……って人ですよね。ミチルさんは遊びだってわかってたんですけど、わかってたんですけど……。知りたくなかった。知らない方が、よかった。あのまま誑かしてほしかった」
俺はグラスを手に取ったまま、またストローに口を付ける。
「知ってた。知ってたけど、気付かないふりをしてました。し切れない時もありましたが。だから、割り切れなかったんだと思います。それが、俺が出した答えです。……好きでした。ミチルさんのことが」
そして、忘れられない想いを振り切るように、それでも振り切れないともどかしそうに、俯き加減に、何度もゆっくりと首を横に振った。俺は、視線を加地の方へ戻した。
「でも、その気持ちは、大切にしてられへんね」
「はい……はい……」
加地は顔を上げると宙を見たまま、分かりたいけど、分からない、分かれない、分かりたくない、分かってやるもんか、そんな風に頷いた。自分を押し殺すように。心の中で反芻して言い聞かせるように。
「これからも大切に抱えたって、報われへんもんは報われへんよ。世の中には、そんなもんが沢山ある」
加地の視線の先はどこにあるのか。同じ角度で俯いて、その宙の中の一点を探して見詰めた。
「それを消化するのも、大切に抱えたままでおるんも、……忘れてしまうのも。全部、気分次第やで」
宙を見詰めたまま、お互い、一分ほど黙っていた。コーヒーを口にして潤っているはずののどが渇いていた。唾を飲んだ。それから俺は、口を開いた。
「俺も、誑かされていたかったよ。踊らされていたかった」
言って、俺は、腰の左に置いていた黒のクラッチバッグを開けた。探すと、一通の白い封筒を取り出した。その中には、一枚の写真だけが入っていた。取り出すと、ミチルを中心にして、左で村瀬がミチルの肩を組み、右で肌の白い聡明そうな女性がミチルの左腕に抱き着いていた。その右下の隅に、白い修正ペンを使ったのだろうか、小学生のように下手くそな字でこう書いてあった。
〈幸せです さようなら〉
「これで、終わり」
「……この人は」
加地は、右に写った女性を指差した。
「村瀬の婚約者。の、理江子さん」
「……幸せそうですね」
加地は、嬉しいと思おうとしたのか、微笑んだ。しかし、眉間の皺と下がった眉からには、もう届かない、という事実に対しての胸が苦しさが滲んでいた。
「まあ、理想や望みが叶うだけが幸せやないってことや」
唾だけでは潤し切れなかった喉のために、俺は残りのコーヒーを飲み干した。ズズズズ、とストローが鳴る。トレーを持って、席を立った。
「じゃ。また一緒に仕事、しよな」
これで、ミチル――と、俺――と、加地――のことは終わりにしようと思った。この一言で、ただの他人と先輩と後輩になろうと。
〈終〉




