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「あれ、鼻声じゃないんだ」
「え」
「ああ、ごめん。おはよう」
七時頃、目が覚めた俺はシャワーを浴び、部屋に戻ってきたところで身体を起こしている加地を発見した。寝起きの挨拶をすると、開口一番の言葉の意味がわからず固まった。すると、加地が笑った。
「いや、昨日さ、すげえ奥で出しちゃったじゃん。それで喘ぎ声まで鼻声で」
「あれは俺が望んでやったことだけど、まさか鼻まで来るとは思ってなかった」
「そうなんだ。したことないの」
「いや……したことはある。確か、前も鼻からも出たな」
斜め上を見つめて思い出し何気なく放った言葉に、加地は一瞬目を点にしては、
「いや、学んだらどうなの」
と、眉尻を下げて笑った。かと思うと、動揺したのか、目線を宙にウロウロと浮かせて最終的に目を逸らされた。俺は洗面台で汲んだ水が入ったグラスを渡す。
「水飲みなよ」
「ありがとう。で、鼻、どうしたの」
上げられた顔を見ると目の色は普段の通りに戻っていた。グラスを持った右手の肘を膝に突き、左手でトントン、と鼻の横をつつく動作は様になっていた。
「ネットで検索して……鼻うがい、みたいなのやった。上手くできたかどうかはわかんねえけど」
「ふーん」
加地は立ち上がり、顔を近付けて俺の顔を凝視してきた。流石、商品なだけあって、やはり顔立ちは整っていた。俺はそんな男といるのか。
なんだか大変だな。俺が女だったら今頃どうなっていたのだろうか。と考えていると、ちゅっ、と鼻筋に口付けされた。頭上でスン、と鼻息の音がした。
「ふは、シャンプーの匂い。じゃあ、俺、シャワー行くね」
加地は俺から離れてシャワー室の方向へ向かい部屋を出る間際に手を振った。
一瞬の考えが、頭の中に響いた気がした。
「俺が女だったら今頃どうなっていたのだろうか」。
わからない。わからないけど、幸せでいたい。幸せに、なりたかった。
どうしても勝てないものがある。何度試しても、幾ら試しても、決して嫌な顔ひとつせず、真っ直ぐな目で見つめてくる。その弓矢は俺の胸を、背中まで通る勢いで突き刺して、見えぬ壁に打ちつけてくる。その壁は、俺が執着で固めて固めて作り上げたものだ。
そんなもの、いつでも壊すことなんてできる。でも、壊せない。俺は勝てないから。
その愛と呼べばいいのかわからない視線の弓矢に。自分から当たりに行っている。その弓矢で俺を狙うのにも、執着はあるもので。
互いに、執着している。この恋は、何も生まないと思った。
そんなことを考えながら際どい色合いで照らされたエントランスを抜け外へ出ると、空気が冷たく、辺り一面真っ白になっていた。足元すら見えない。
霧だ。なんだこれ。景色が見えないとどちらから来たのかすらわからなくなってしまい、一旦中へ戻ってタクシーを呼ぼうとした。そのとき。
「おい、ミツ」
それは、聴くだけでまさに弓矢で壁に張りつけてくれる声だった。




