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15 - 2

「いらっしゃいませ。ああ、小野上さん。お久しぶりですね」


 店に入ってマスターがこちらを見付けると嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべた。道也の方を確かめると、こっちも嬉しそうだ。クロークにバッグを詰めてマスターの視線ですすめられたカウンター席中央あたりに座った。俺が奥で、道也は出口側だ。


「ショートの甘めで……強いほうがいいかな。ベリー系で」

「俺は若干弱めで。ロングで柑橘系のが欲しい」

「かしこまりました。相変わらず、小野上さんは柑橘系がお好きなんですね」


 そういえばそうだ。相変わらず、体から香るのもオレンジの匂いだった。「道也と言えばオレンジの匂い」という認識が当たり前なばっかりに、そこまで気が届かなかった。


「やっぱ落ち着くなあ。ここのピアノの音は」

「ありがとうございます」


 道也がカウンターに右腕を突いてマスターを見上げた。マスターが微笑むのを一瞥してから店内を見渡すと、俺たちより奥の方に男性客が一人、後ろの二つのバーテーブルのうちの奥の方に男女が二人座っているのが見られた。仄暗い中それぞれの表情は見えにくいが、微かな笑い声からして、それぞれが楽しそうだ。俺は、カウンターの向こうに視線を向けて、両腕を突いた。

 シェイカーの音が鳴り止むと、スッと二つのグラスが差し出された。俺たちは受け取って、目を合わせて顔の横で軽く挙げた。口を付けるとクランベリーとパッションフルーツの味がした。


「夏っぽいね」


 マスターに言うと柔らかく、嬉しそうに笑った。


「今日も暑かったので、どうかなと。夏ももうすぐ終わりますが」

「ほんと。暑かったよなあ。道也が焼き豚になるかと思ったわ」

「それ、シンプルに悪口やで」

「でも、肉汁いっぱい出てたよ」

「汗や、汗。漢字に棒一本足りひんがな」


 道也はわざとらしく怒った顔で何度も、右手で宙に横棒を描く。その様子にマスターは、ふふ、と笑って場を離れた。


「あはは」

「あはは、やないで、もう」

「ふう、おっかしい。その汗さ、さっきまで拭いてたけど、撮影中とかはどうしてんの」

「そうやなあ、基本制汗スプレー使うてるけど……今日より暑い日なんかはそれじゃ敵わんから、脇の下に冷えピタかな。待機中だけ。演技中は集中してなんでか出えへんのやけど」

「ああ、確かに前、そんなこと言ってたな。前って言って……二年も前になるのか。汗っかきなのも変わらねんだな」

「そやね。ミチルの肌が白いんも変わらんわあ。すぐ焼けて、こんなに痛そう」


 懐かしそうに笑っては身を寄せられ、汗と香水の匂いが鼻を襲ってきた。胸が高鳴った。指し伸ばされた指先に毛の薄い右腕を、つうっ、と撫でられると、ヒリついた皮膚が過敏になっているせいで、ビリビリ、と僅かな痛みが走った。あまりにも優しく撫でられると、その痛みは、苦痛とは逆の甘いものへと姿を変えようとした。


「っふ……」


 耐え切れない声に交えて笑みを浮かべながら眉を顰めてみせ、咎めたのを察知してくれたのか、道也は先ほどと同じように座り直した。ごめんね、と言いたげに眉尻を下げていても、唇が可笑しそうに綻んでいるのを見逃さなかった。それを誤魔化すかのように次は悪戯っ子のように笑みを広げて、ツンツン、と脇腹をつついてきた。


「またまたー、そんな声出してー」

「やめろよ、もう、お前もこうだ、ほら、だらしない肉しやがって」

「やめてや、これでもマシになった方なんやからさあ」


 応戦して互いにつつき合い小声でキャッキャキャッキャと笑っていると、カウンター席の奥の方に座っている男の客と話していた若い男がやってきた。手を止めて座り直した。


「いらっしゃいませ。小野上さん、お久しぶりです」

「あ、戸塚くん。お久しぶり」


 戸塚はベストの着崩れを正すと頭を下げた。顔を上げるとふくよかな唇は弧を描いていた。あまりにも綺麗な形をしているので、昨日見たとしても飽きずに感心してしまう。


「お忙しい中、また来ていただけて嬉しいです。今日の朝観ましたよ、ワイドショーで。映画、クランクアップしたんですよね」

「おお、ありがとう。そうなんよ。次は冬にコンサートツアーや。来てくれへん」

「ええ、マスターが寂しがりますよ」

「そんなこと言うて、丁重に断るもんやね」

「あはは。実のところ、人が多い場所がどうしても苦手で」


 テレビを観ることにも歌を聴くことにも興味がない俺は、二人が話を弾ませているのを左肘を突いて眺めるしかなかった。右手で摘まんだグラスの中身は底ほどにしか溜まっていない。それでも黙って微笑を浮かべたまんま、ちびちびとグラスの端を舐めるように飲んだ。


 俺は人が多い場所を苦手とはしない。皆、忙しそうに何かを目指して追って追われてを繰り返しているのを見ると、羨ましくなってくる。俺には、特に目指すものもないから。俺は変わらない毎日を過ごして、何もないまま、歳を取って死んでいく。きっと、ずっと、一人で。独りで。だから、誰かと一緒にいたり、何かを追っているのを見ると羨ましくなってくるのだ。その羨ましさを妬ましいとは感じない。俺は俺の人生を諦めているから。頑張っているのを見ると、気持ちが良いなと感じたりもする。俺には頑張るものはないから、素晴らしいと思う。だから、人が多い場所は苦手ではない。

 ただ、人混みの中のうちの一、二割ほどは、俺の存在を苦手とする人はいるのだろうなと思っている。何せ、見た目が大衆とそぐわないほど不健康そうに見えるからだ。おどろおどろしい何かに見えるらしい。自覚はしている。だが、どうしようもない。どうにかしようという気がないから、どうしようもできない。


「ミチルさん、次、何飲まれますか」


 戸塚の声で、意識が現実に戻された。ハッとして宙から二人の顔に視線を移すと、優しく笑みを湛えて俺の返事を待っていた。

 ここの人たちは、俺を拒絶しない。

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